2008.02.20

風邪が治らなくて、調子が悪い。

早く寝ればいいのだけれど、大好きなテレビを見るために我慢!!


そう、「斉藤さん

キャッチコピーは「うるさかろうが、煙たかろうが、斉藤さんは正義の道を行く。」

この間(1/31)書けなかったので、今回はきちんと。


何でこのドラマが気になるかというと、「斉藤さん」みたいな人が世の中には必要だと思うし、素直に憧れているから。


一定以上の集団(地域社会も含め)で行動していると、正論とは別にその集団だけのルールのようなものが出来てくる。

その仲間以外の人からみると、とてもおかしなことが行われている。
(政治と金だとか、業界のルールだとか)
メンバーに入れてもらえないと、ものすごく不利。

また、その集団メンバーの目(ルール)を意識するあまり、自分がそこで目立たないようにとか、仲間はずれにならないようにとか、必要以上に気を使ったりするようになる。

「KY」という言葉があるのだそうだ。

空気読めないの略。

こういちろう よりみつ の略でもあるのだが・・・。


さてさて、自分が問題と思うのは、善悪であったり、行動の判断が、周りの空気を読んでということになりすぎると、己の意思が人に委ねられているということになり、自分というものがどんどんふわふわとしたものになるのではと思うこと。

そこに居てもいなくてもいい人間というのは、とてもつらいと思う。


「きちんとした自分の意見を持ちなさい!」ということなんだろうけど、「何でもかんでも、自分の意見を理路整然と語れ」というほど強く思っているわけでもない。

自分の中で違和感があったのなら、何に違和感を感じるのかを「きちんと自分の頭で考えてみるべき」くらいのニュアンス。


集団というのは、いろいろな人がいろいろな考えを持ち、その違いが生かされてこそ、集団で行動する意味があるのだと思う。
強い地域社会の相互扶助、何か起こる前の予防の近所づきあい、地域の和も、違った意見・行動をする人がいてこそ。

日本人は、異論反論をしない集団を作りがちと思う。
だからこそ、あえて異論反論を言う人をもっと大切にしないといけないと思う。



ドラマの中の斉藤さんは、真っ直ぐな正論なんだけど、その分、集団の場を乱す。(依光はテレビの前で、ただただハラハラしている。まんまとドラマ制作者の罠にはまってるね♪)

じゃあ、依光はドラマのような場面に出会ったときに、斉藤さんと同じような行動を取るかというと、実は出来なかったりする。


くわえタバコで道を歩く人を注意できないし、通行の邪魔をしながら自転車に乗っている高校生の集団を追いかけないし、電車で席を譲らない人に意見もしない。


なんで?

勇気がない?
かっこつけてると思われたくない?

う~む。

いけないとは思っていても、その行為が自分の中でセーフのラインに入っているのかなあ。


ある場面に出会い、自分の中でセーフのラインを越え、アウトゾーンに入ったら、斉藤さんのように行動できる人でありたいと思う。


そのためには、違和感を意識化する努力をし、自分の意見をきちんと伝えられる準備と、場を混乱させることを恐れない気力。

現実的には、自分の意見に賛同してくれる仲間と、「依光がここまで言うなら、少しは耳を傾けてみるか。」と言ってもらえる日ごろからの行い。信頼感。

先は長い。

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