「志国高知 幕末維新博」について 平成29年12月定例会 一般質問
(一括質問を、一問一答の形に編集しております。答弁の後は、依光の質問になります。)
○議長(浜田英宏君)
これより日程に入ります。日程第1、第1号「平成29年度高知県一般会計補正予算」から第28号「高知県公立大学法人定款の変更に関する議案」まで、以上28件の議案を一括議題とし、これより議案に対する質疑並びに日程第2、一般質問をあわせて行います。15番依光晃一郎君。
(15番依光晃一郎君登壇)
○15番(依光晃一郎君)
早速質問させていただきます。平成29年も残りわずかとなりました。ことしは大政奉還から150年、そして来年は明治維新150年の年です。この節目の年は、日本各地で歴史観光に関するイベントが行われ、また明治維新に関しての書籍が多く出版されるなど、過去の歴史を振り返ってこれからの日本のあり方を考えるよい機会ともなっております。
我が高知県においては坂本龍馬先生を初め多くの幕末の志士を輩出し、また明治となってからも中江兆民先生を初めとする自由民権運動にも人材を輩出していることから、明治維新を高知の郷土史と捉えて、高知県独自の検証をするということもできるのではないかと思います。
私は、明治維新というのは日本の政治史において、日本の政治体制はこうあるべきだと目指すべきビジョンを正確に指し示したものであり、また土佐の先人たちがそのビジョンに対して命がけで取り組んだのだと理解をしております。大政奉還150年を契機に、土佐の先人の理想を思い出すことによって土佐人としての自信と誇りを再確認するきっかけにしたいと思い、質問をさせていただきます。
いつもどおり説明が長くなりますが、お許しいただきたいと思います。また、土佐の先人には先生とお呼びすべきところですが、若干くどくなりますので敬称を略させていただくこともお許しください。
さて、幕末のキーワードの中に尊王攘夷運動という言葉があります。私は、この言葉の意味を、日本人が日本人の手で日本を守るために江戸幕府とは違った国をつくるべく、皇室の権威を旗印に新しい政治システムを生み出そうとした運動というように捉えています。明治維新は、黒船来航に象徴されるように外国からの軍事的な圧力がきっかけで起こりました。当時の東南アジアや中国の清王朝は、西洋列強に戦争で敗れ植民地化されていきます。そのことを憂いた草莽の志士、また実際に政治を担っていた江戸幕府の幕臣、雄藩の藩士たちはそれぞれの立場で奮闘をします。日本中が新しい政治体制を模索する中で、公武合体論、倒幕論などが生まれ、最終的に大政奉還という形で江戸幕府は幕をおろしました。
それでは、我々の先祖である土佐の先人たちが理想とした政治体制はどういったものだったのでしょうか。私は、幕末の時点で既に庶民も政治参加できる民主主義国家を目指していたのだと考えています。
高知県では、現在「志国高知 幕末維新博」ということで、高知県各地の資料館などで当時の手紙や文書などが公開されています。新国家という言葉で有名になった、龍馬が暗殺される5日前に書いた手紙などは高知県観光の新たな目玉となりました。私は、この貴重な資料に光を当てる取り組みをさらにパワーアップさせ、来年度の明治維新150年に向けて、土佐がリードした民主主義国家への歩みをもっと打ち出せないかと思うところです。特に、大政奉還より4カ月前の6月に土佐藩と薩摩藩の間で結ばれた薩土盟約に関する資料は重要です。
薩土盟約というのは、大政奉還という平和的に幕府を倒すという土佐藩の考え方に薩摩藩が同調した盟約で、結果的には武力討伐を目指した薩摩藩と意見が合わず決裂したというものです。この会議の出席者は、土佐藩から後藤象二郎、寺村左膳、真辺栄三郎、福岡孝弟、薩摩藩から小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通、陪席いわゆるオブザーバーとして坂本龍馬、中岡慎太郎というものです。薩土の幕末のスター勢ぞろいというおもしろさに加え、大政奉還か武力倒幕かという緊迫した会議という点でも、もっと注目されてよいのではと思います。そして、何より土佐藩が民主主義国家を目指していた証拠が明確に示されているという点で、大いに注目すべきです。
この盟約は7カ条から成る約定書で、その3番目には「議事院上下に分ち、議事官は上公卿より下陪臣・庶民に至まて正義純粋の者を選挙し、尚且諸侯も自ら其職掌に因て上院の任に充つ」と記されています。現代文に訳すと、上院と下院を分け、議員は公卿から諸侯・陪臣・庶民に至るまで正義の者を選任し、諸侯も職掌によって上院に充てるとなります。庶民に至るまで正義の者を選任しという部分は、土佐の自由民権運動のスタートであると言えます。ちなみにこの文書は、大久保利通自筆の原本が鹿児島県歴史資料センター黎明館に残されています。
この薩土盟約は、先ほど述べたように解消され、土佐単独での大政奉還建白書として最後の将軍徳川慶喜に提出をされます。その中の別紙に建白の具体案が8項目あるのですが、その2番目に「議政所上下を分ち、議事官は上公卿より下陪臣・庶民に至まて正明純良の士を選挙すへし」と、薩土盟約の内容を引き継いだものが示されています。この内容は、高知城歴史博物館で11月27日まで展示されており、議会は上下二院に分け、議員は上は公卿、下は藩士・庶民に至るまで、身分を問わず人格にすぐれた人物を選挙すべきですと、現代文もありました。
ちなみに、選挙という言葉ですが、現代的な意味での選挙については当時は入れ札という言葉が一般的だったということで、本日は選任という意味で解釈しています。一方で、高知城歴史博物館は、原本の選挙をそのまま選挙と訳していますが、アメリカの政治制度を学んだジョン万次郎の影響を受けた土佐の志士が、現代的な選挙を目指していたというのも否定はできないことと思います。
大政奉還建白書は最終的に明治天皇が宣言した五箇条の御誓文につながるのですが、そこでは「広く会議を興し万機公論に決すべし」という文言となって国民に示されます。ちなみに、起草者の一人である土佐の福岡孝弟は「列侯会議を興し万機公論に決すべし」という文言で起草しています。議会を列侯会議と改め、大名や公家が国政について話し合う、幕末の諸侯会議に近い政治体制です。薩土盟約に参加していた福岡孝弟ですので、なぜ庶民についての文言を入れられなかったかと悔やまれます。もし入っていたのなら、明治新政府は現代の政治体制に近い形になっていたはずです。このことこそが、坂本龍馬が生きていれば世の中が変わっていただろうにという大きなポイントかもしれません。この「列侯会議を興し」は、木戸孝允によって「広く会議を興し」に修正されます。
最後に、高知県出身の吉田茂総理が、戦後の昭和21年6月25日に衆議院本会議にて五箇条の御誓文について述べておりますので御紹介をいたします。「日本の憲法は御承知のごとく五箇条の御誓文から出発したものといってもよいのでありますが、いわゆる五箇条の御誓文なるものは、日本の歴史、日本の国情をただ文字にあらわしただけの話でありまして、御誓文の精神、それが日本国の国体であります。日本国そのものであったのであります。この御誓文を見ましても、日本国は民主主義であり、デモクラシーそのものであり、あえて君権政治とか、あるいは圧制政治の国体でなかったことは明瞭であります」。この日本国憲法案の審議で述べられた内容は、吉田茂総理が土佐がリードした民主主義国家の理想を改めて述べられたものであり、土佐人の一人として誇りに思うところです。
(1)「志国高知 幕末維新博」を通じて、県民や県外観光客に伝えたいことについて
長々と話をさせていただきましたが、まず最初に、「志国高知 幕末維新博」を通じて高知県民に、また県外から来られる観光客の皆さんに伝えたいことについて知事にお聞きをいたします。
(知事尾﨑正直君登壇)
○知事(尾﨑正直君)
依光議員の御質問にお答えをいたします。まず、「志国高知 幕末維新博」を通じて県民や県外観光客の皆様に伝えたいことについてお尋ねがございました。
平成29年と平成30年は、日本の転換点となった大政奉還と明治維新から150年に当たり、日本全体として歴史に注目が集まる年でありますとともに、幕末から明治維新にかけて多くの偉人を輩出し当時の日本をリードしてきた本県にとりましても、特にかかわりの深い節目の年であります。
「志国高知 幕末維新博」は、こうした節目の年に、高い志を持った多くの若者が生まれた風土や、彼らを育んだ時代につながる食や自然、文化を知っていただくとともに、当時地方にありながらも志を抱き世界を視野に行動した人々に思いをはせ、未来を切り開いていこうとする心を育むきっかけにしていただくことも目的として開催をしており、観光振興だけでなく、特に若い人たちに土佐の歴史や先人の業績を学んでいただきたいという目的もございます。
幕末期、土佐には、土佐勤王党の結成や命がけの脱藩など、個人的な利害損得を打ち捨てて日本の国難を我がこととし、日本を何とかしようとしたたくさんの人々があらわれました。私は、このような土佐の先人たちに大変誇りを感じています。脱藩したのは坂本龍馬先生だけではありません。幕府に対して戦いを挑んだ吉村虎太郎先生、那須信吾先生など、志を立て行動を起こした人々の足跡がたくさん残っています。
幕末維新博では、このような志士ゆかりの地を中心に、史跡や本物の資料を通じて、その功績はもとより幕末・明治維新期のリアル感が伝えられるように、しっかりと磨き上げを進めてきているところであります。
また、第2幕では、坂本龍馬先生の志を継いだ2つの系譜にもスポットを当てていきたいと考えております。1つは、岩崎弥太郎先生に代表される日本の産業革命を起こしていく多くの経済人たちの系譜、もう一つは、板垣退助先生を代表とする自由民権運動を起こしていった人物たちの系譜でございます。
私は、この「志国高知 幕末維新博」を通じて、土佐の幕末維新期の人とその志を見ていただきたいと思います。そして、その志を継いだ現代の高知の人を見ていただきたいと思っております。引き続き、第2幕の開幕に向けてもしっかりと準備を進めてまいります。
(2)明治維新150年の歴史を観光の目玉とする企画展示について
○依光
また、来年度の明治維新150年に向けて、先ほど御説明させていただいた薩土盟約、大政奉還建白書、五箇条の御誓文、吉田茂総理の日本国憲法案審議は、土佐がリードした日本の民主主義を語る上でおもしろい切り口ではないかと思います。
そこで、これらの資料を一堂に集めて流れをわかりやすく整理して展示し、明治維新150年の歴史を観光の目玉とする企画展示を計画してはと考えるがどうか、観光振興部長にお聞きをいたします。
(観光振興部長伊藤博明君登壇)
○観光振興部長(伊藤博明君)
まず、明治維新150年に向けて、薩土盟約や大政奉還建白書など、土佐がリードしてきた日本の民主主義に関係する資料を一堂に集め、わかりやすく展示し、観光の目玉とする企画展示を計画してはどうかとのお尋ねがありました。
お話のあった、これらの資料を一堂に集めてストーリー立てて展示することは、幕末・明治維新期に果たした土佐人の功績、役割を語る上で大変魅力的な展示になるものと思います。
幕末維新博では、お話のあった資料に関連するものとして、本年9月から11月までの間、メーン会場である高知城歴史博物館の特別企画展、大政奉還と土佐藩の中で、大政奉還建白書の写しや坂本龍馬記念館所蔵の由利公正が後年になって書いた五箇条の御誓文など、県内で有する資料について展示をしてまいりましたし、幕末維新博で展示をさせていただきたい貴重な資料については、議員からお話のあった資料を含めまして、博覧会開催が決まって以降、所有・保管元の施設などに貸し出しの要請や調整を続けてきたところです。
しかしながら、大政奉還から150年、明治維新から150年という全国的に節目の年ということもあり、全国各地から展示要請が寄せられていることに加えて、1年間に展示できる日数が制限される資料もあり、こちらの希望の日時に合わせてお借りすることが大変難しい状況となっております。
お話のあった資料も既に来年の年間展示計画が決まっておりますので、これらを本県に一堂に集めて展示することはかないませんが、土佐がリードした歴史のストーリー立てにつきましては、専門家に相談して取り組みたいと考えておりますし、幕末維新博では、来年においても貴重で魅力ある資料の展示に向けた取り組みを続けていきたいと考えております。
(3) 尊王思想を持っていた板垣退助と中江兆民について
○依光
次に、民主主義的な国家像と皇室との整合性について、土佐の先人が自由民権運動を通じてどう考えたかを前提に、皇室について考える土壌づくりをしたいという趣旨で質問させていただきます。
私は、尊王攘夷運動について、日本人が日本人の手で日本を守るために江戸幕府とは違った国をつくるべく、皇室の権威を旗印に新しい政治システムを生み出そうとした運動と定義しました。先ほど見た資料のそれぞれに、皇室の権威を旗印にしたことの証明となる文言があります。薩土盟約では、1番目に「天下の大政を議定する全権は朝廷にあり」とあります。大政奉還建白書でも全く同じ文言が使われています。
このことから明治維新は、明治天皇を絶対君主にした政治体制を構築しようとするもので、民主主義政治とは最も遠い政治体制だとの反論が出るのではと思います。明治天皇が国の全てのことを決め、また国民に命令をして自分に対する反対は認めないというような体制を目指したのだという反論です。
なるほど、日本を除く諸外国の王政は絶大な政治権力を持ち、巨大な宮殿を建てて人民を支配しました。しかし、私は、中国の皇帝のように絶対的な権力を持つ王として明治天皇を位置づける国づくりを、幕末の日本人が考えていたということについては絶対にあり得ないと考えています。なぜなら、日本人は、絶対王政が政治腐敗と国内の混乱を生み、やがて国が滅ぶということをよく知っていたからです。その証拠に、江戸時代の寛政期ごろには、安定した皇室を持つ日本を世界に冠たる国として誇る意味で、皇国という言葉が生まれます。ころころと皇帝がかわる中国の政治体制を念頭に置いたものと思います。ちなみに、皇国とは大日本帝国の別名として生まれたのではなく、中国と比べた政治体制という意味であったことをつけ加えておきます。
では、土佐の先人は民主主義国家と皇室の整合性についてどう考えていたのかを見てみます。
まず最初に、自由民権運動の板垣退助です。板垣は、明治15年に「自由党の尊王論」という論文を発表しています。薩長藩閥政府は強権政治を行うことで結果的に皇室を危うくしている、明治天皇が五箇条の御誓文で「広く会議を興し万機公論に決すべし」と神に誓う形で示された趣旨に立ち返り、民選国会を開き、自由な議論による政治を目指せと主張します。皇室を守っていくためにも民選国会が必要という主張です。
次に、東洋のルソーと言われた中江兆民を見ます。中江兆民は、絶対君主ルイ16世が処刑されたフランス革命を紹介したことから皇室について否定的であったと思われがちですが、皇室の重要性を積極的に説いた尊王土佐人の一人です。
明治20年に「平民のめさまし」という本を出版しています。明治22年、大日本帝国憲法制定、翌23年、第1回総選挙、第1回帝国議会に先駆けた出版です。第1章国会、第3章上院下院、第6章選挙の方法など、民主主義を国民にわかりやすく伝える内容です。ここで注目すべきは第2章の君主という項目で、民主主義国家における天皇の位置づけについて解説し、内閣が倒れようと国会で激しい論争が起ころうとも、天皇の地位は絶対に揺るがないと国民が安心できるように記述をしています。この内容は、高知市民図書館・近森文庫の蔵書が、国文学研究資料館のデジタル版としてインターネットで見られます。
フランスに留学し、革命後のフランス民主主義体制の混乱を知っていた中江兆民は、いつも国民に寄り添おうとする皇室の伝統的な政治姿勢が、国会の激しい論争による国民の分断に対して抑止力となると期待していたのではと感じます。この「平民のめさまし」には、皇室について「御世ごとに聡明仁慈にわたらせ給ひ、民を恵むこと父母のごとし」と書いています。皇室の伝統的な政治姿勢をたたえ、だからこそ日本の民主主義はヨーロッパ諸国に負けないのだという自尊心を表現したのだと思います。
また、板垣退助の、薩長藩閥政府の強権政治が国民の政治不信を生み皇室を危うくするという考え方は、昭和の太平洋戦争開戦という政治の失敗を予言していたようにも思います。帝国議会開設の後、薩長藩閥政治は終わりを告げますが、皇室の権威を盾に議会を超える権力を持つに至った軍部が台頭します。そして、日本は焼け野原になりました。
私は、明治維新150年に当たって、板垣退助の「自由党の尊王論」、中江兆民の「平民のめさまし」の2つについて、まずは高知県内において再評価できないかと考えています。
今月1日の皇室会議により、天皇陛下の御退位が平成31年4月30日、新天皇陛下の御即位が翌5月1日と決まりました。天皇陛下の退位に関する議論は、私はスムーズに進んだと感じておりますが、一方で国民が皇室のあり方、今後の皇位の安定性についてしっかりと議論ができたとは思っていません。その理由として、皇室について語ること、また皇室についての敬愛を言葉にして伝えることについて、タブーと感じている国民が多いからだと感じております。
私は、皇室が今後も続いていくことを願っている一人です。そういう意味では、皇位継承者が減少し、安定した皇位継承に不安のある現状について、尊王思想のルーツを持つ高知県から議論を深めることができないかと考えるところです。明治維新で活躍した志士が尊王の志士である以上、そのことに誇りを持ち、その遺志を受け継いで皇位継承の議論を深めることは責務であるとも思います。
そこで、私は、尊王思想を持っていた板垣退助と中江兆民について、県民にさらに知っていただくための取り組みが必要と考えますが、文化生活スポーツ部長にお聞きをいたします。
(文化生活スポーツ部長門田登志和君登壇)
○文化生活スポーツ部長(門田登志和君)
板垣退助先生と中江兆民先生を県民にさらに知っていただくための取り組みについてお尋ねがございました。
板垣退助先生と中江兆民先生は、ともに自由民権運動に大きな役割を果たした郷土の偉人であり、これまでも、「志国高知 幕末維新博」を契機に作成しました冊子、幕末維新の土佐人物紹介でその人物像を紹介しておりますほか、高知城歴史博物館や文学館において、板垣退助先生の系図や中江兆民先生の全集などを展示公開してまいりました。
来年は、明治維新から150年に当たる節目の年でありますことから、4月にグランドオープンする坂本龍馬記念館も含め、県立文化施設におきまして明治維新に関連するさまざまな企画展を開催する中で、多くの県民の皆様に、板垣退助先生や中江兆民先生など、郷土の偉人の功績や志に触れる機会を創出していきたいと考えております。
(4)土佐の民主主義についての郷土史副読本について
○依光
先ほど、板垣退助の「自由党の尊王論」の中で、薩長藩閥政府の強権政治が国民の政治不信を生み皇室を危うくするという考え方を御紹介しましたが、逆に考えれば、日本において、成り上がりの権力者は皇室の権威を利用することで国を治めることができるということになります。
明治新政府のメンバーも成り上がりなわけですから、当然に皇室の権威を利用して明治新政府を運営していきます。土佐の志士は、明治新政府が議会による政治を行うことに期待したはずです。実際に明治天皇は、五箇条の御誓文のとおり上下二院制の議会をつくり、直接的な政治は委任するという伝統的な皇室のあり方を望んで政体書を公布し、立法議事機関である議政官を含む七官を設置しています。しかし、明治新政府は、戊辰戦争終結の見通しがつくと議政官は3カ月で廃止、議会開設を先送りして、独裁的な藩閥政治を推し進めることになりました。
この皇室の権威を背景に独断政治を行う勢力に対抗するには、板垣が考えたように民主主義制度しかありません。つまり、選挙によって選ばれた議員が、その選ばれたということを背景にして政治を行うというものです。
この民主主義政治については、土佐藩は、ジョン万次郎を通じてアメリカの政治制度を学び、深く理解していたと考えられます。万次郎のアメリカの知識を記録した河田小龍の「漂巽紀畧」に、アメリカ大統領の記述があります。「多くの才能や学識を持った人達を推薦して、大統領を選ぶ。大統領の在職期間は四年を限度としている。しかし、もし徳が高く、政治の力が抜群であれば、なお、職を続けることが出来ることもある。在職中、一日の給料は銀千二百枚である。
全国の、才能があるものがこれに選ばれようと、相争ってここに集まる。今の大統領はテーラーと言い、その政策は法に則って厳正であるという。このように、政治や法律が行き届いているために、合衆国の政治にこれ以上付け加えることはないということである。」と記述をされています。ちなみに、この訳は、ウェルカムジョン万の会がホームページに載せています。
また、万次郎は、藩校、教授館の教授に登用され、後藤象二郎、岩崎弥太郎などを教えています。この下地があったからこそ、土佐が、民主主義政治を生み出すための自由民権運動発祥の地になったのだと思います。
そして、ついに大日本帝国憲法が自由民権運動の後押しを受け、アジア初の近代憲法として成立します。さかのぼること薩土盟約以来の念願であった、庶民も政治参加できる政治体制です。しかし、民主主義と天皇の位置づけについて完全に消化できず、混乱の種を残したことも指摘しておきます。
日本が政治的に混乱する際には、皇室のためにということを旗印にした勢力が、自分が考える理想的な政治体制を、時の天皇も望んでいるはずだと言って起こします。戦前の民主主義の最後のとりでとして忘れてはいけないのが、土佐の浜口雄幸総理です。ロンドン海軍軍縮条約は統帥権干犯であるとされ、右翼団体の凶弾に倒れます。この犯人は、浜口は社会を不安におとしめ、陛下の統帥権を侵した、だからやった、何が悪いと供述したといいます。皇室のためにといってテロを起こすことは五・一五事件、二・二六事件と続いていき、軍部の暴走をとめるべき民主主義政府不在のまま、太平洋戦争に突入します。浜口雄幸の受難は、さきの大戦を振り返り、民主主義とは何かを考える際の歴史的な教訓であると思います。
現在の民主主義についての学習は、政治的中立が言われ過ぎて、政策についての学習はまれで、選挙違反の事例を教えることが中心の学習内容であるとも聞きます。なぜ民主主義が大切か、なぜ選挙が必要なのか、また政治権力が選挙を通じて選ばれた政治家に付与されるのはなぜかなど、きちんと教えられていないのではと思います。
私は、高知県の生徒は、民主主義制度について、郷土史として土佐の先人の活躍を追っていくことで学習できるすばらしい環境にいると思います。土佐の自由民権運動、浜口雄幸の受難を土佐の郷土史として位置づけ、将来的には高知県独自の民主主義教育教材の作成をも目指すべきではないかと思うところです。
現在、高知県郷土史副読本が作成中と思いますが、土佐の民主主義についての先人の活躍をどのように盛り込んでいるのか、教育長にお聞きをいたします。
(教育長田村壮児君登壇)
○教育長(田村壮児君)
まず、土佐の民主主義における先人の活躍について、作成中の高知県郷土史副読本にどのように盛り込んでいるのかとのお尋ねがございました。
御質問のありました高知県郷土史副読本は、旧石器時代から現代までの高知県の偉人や出来事を時代順に叙述する形式であり、授業などでの活用を通して、子供たちの郷土に対する誇りや愛情を育むために作成しているものでございます。全体的には歴史の流れを重視して編集しておりますが、幕末以降は、坂本龍馬先生やジョン万次郎先生などの特に重要な偉人をトピックスとして取り扱うことで、高知の先人たちがどのような思想・信条を持ち、どのような業績を上げ、日本の発展にどのような影響を与えたのかについて、生徒たちが興味を持ちながら理解できるよう工夫をしております。
お話のありました、日本の民主主義の充実・発展に貢献した浜口雄幸先生などの高知の偉人につきましては、当時の日本や高知の政治、社会のさまざまな課題に信念を持って立ち向かったことを、副読本の中で取り上げております。現在作成中の副読本は、来年4月に県内の中高生に配付し、社会科、地理歴史科、総合的な学習の時間などで積極的な活用を図ってまいります。そして、郷土を知り、郷土の歴史に関心を抱いた子供たちに、高知城歴史博物館を初めとする県内の諸施設を利用しながら、主体的に土佐の民主主義について学んでもらいたいと考えております。
(5)谷秦山を広く県民や観光客に伝えることについて
○依光
次に、なぜ土佐の先人が尊王についての自我を持ったかについて考えてみたいと思います。
私は、土佐南学の谷秦山に源流を見ています。
土佐南学は、室町時代末期に儒者南村梅軒が土佐で朱子学を講じたことを始まりとし、谷秦山は中興の祖として元禄年間に活躍をします。その特色は、大義名分という朱子学が重んじる、誰が君主で誰が臣下か、またそれぞれの立場で守るべきことは何かという学問を、神道古典の研究と土佐の歴史の実証的研究をあわせて、論理的に明らかにしたことです。谷秦山は、皇室と幕府の二重権力の関係について、明確に皇室が君主と示した上で、どうして政権が幕府にあるのか解説します。この学問体系が、土佐の尊王思想の根拠として幕末にまで影響を与えていきます。
谷秦山の著作に「保建大記打聞」というものがあります。江戸時代前期に水戸藩の朱子学者栗山潜鋒が書いた尊王論の書物である「保建大記」について、谷秦山が講義したものを、弟子が講義録としてまとめたものです。この「保建大記打聞」は、吉田松陰が野山獄で読んだと読書記の中に記述があり、遠く山口県まで伝わるなど、谷秦山の影響力の大きさがわかります。
ちなみに、この尊王論は、太平洋戦争末期の神がかった尊王論ではなく、むしろ皇室が政権を奪われたのは皇室が道義を失い徳が至らなかったからだと皇室を批判し、叱咤激励するものであったことをつけ加えておきます。
現在、幕末維新博が高知県全域で開催されていますが、土佐の志士は高知県内のあらゆる土地から出ていることが特色となっております。中岡慎太郎が北川村でどういった教育を受けたのか、津野町で生まれた吉村虎太郎が何に影響を受けて遠く故郷を離れ吉野で命を散らすことになったのか、こういった志士たちの情熱と行動の源は、谷秦山の学問にルーツがあります。
谷秦山の学問は、皇室が、徳川将軍家、土佐山内家にまさる存在ということを大義名分論として明らかにし、また神道古典の研究によって庄屋のアイデンティティーを呼び起こすことで、後の天保庄屋同盟を生んでいきます。天保庄屋同盟とは、簡単に言えば、庄屋という役職のルーツは日本書紀にまでさかのぼることができ、朝廷から土地と人民を預かっている存在である、だから山内家の侍に理不尽なことを言われたら、協力してその侍と戦い人民を守るという密約です。谷秦山の、皇室こそがあるじという考え方と神道古典の研究成果が、天保庄屋同盟を生んだと言えます。
この学問は、長男垣守、孫真潮と代々受け継がれ、その子孫の谷干城も当然学びます。谷家の家訓として伝えられていたことについて、谷干城が語るところによると「万一、国の大動乱がおこったならば、何をおいても、京都へのぼれ。のぼって天子さまをお守り申しあげよ。もし旅費がない時は、乞食をしてのぼれ。御所をお守り申しあげて、力尽きたらば、御所の塀によりかかって死ね。死んでも御所をお守りするのだ」という内容であったそうです。まさに土佐の尊王の志士の行動の原点が見えます。
ちなみに、坂本龍馬の4代前の坂本八郎兵衛が谷秦山に学び、長男垣守と親交があったと言われており、坂本龍馬の尊王のルーツも谷秦山と言えます。
谷秦山は、香美市土佐山田町にお墓があり、学問の神様ということで、県内外から受験シーズンには多くの参拝者が訪れます。このお墓の管理と毎年2月の墓前祭を行っている組織が高知県秦山会です。大正7年に結成されました。戦後、長らく絶えていたのですが、昭和37年に溝淵知事を会長にして再結成されます。
現在の高知県では、谷秦山は余り知られていないのではと思いますが、土佐の幕末維新は谷秦山なくしてはあり得ず、来年の没後300年に合わせて広く県民に知っていただくことができないかと考えるところです。そこで、香美市には、現在幕末維新博に関する地域会場がないのですが、土佐の尊王の源流に触れてもらうべく、来年の明治維新150年のパンフレットなどに紹介していただいたり、香美市観光協会の企画への支援をお願いできればと思います。
谷秦山を広く県民、観光客に伝えることについてどうか、観光振興部長にお聞きをいたします。
○観光振興部長
次に、谷秦山先生を広く県民や観光客に伝えることについてお尋ねがありました。
谷秦山先生は、土佐藩における著名な儒学者であり、土佐から多くの志士たちを生み出す原動力となったと言われている土佐南学の継承、発展に大きな役割を果たされました。
「志国高知 幕末維新博」は、志を持った多くの若者が生まれた土佐の風土や、彼らを育んだ時代につながる食や自然、文化について、国内外の観光客の方々に知っていただくことを目的に開催しておりますので、谷秦山先生の功績をお伝えすることはこの博覧会の目的にも沿うものであると考えております。
谷秦山先生に関しましては、現在、高知県立文学館での幕末維新博関連展示においてその功績を御紹介しているほか、こうち旅広場の地域情報コーナーでは、学業成就にちなんだ香美市のスポットとして谷秦山墓所を御案内しているところです。
県としましては、これらに加えまして、幕末維新博のホームページへの掲載などの情報発信や、谷秦山先生没後300年に合わせて香美市や地元団体が観光資源として磨き上げを実施する際の支援についても検討してまいりたいと考えております。
(6)高知みらい科学館における谷秦山の業績紹介について
○依光
次に、谷秦山を土佐が生んだ科学者と捉えて質問させていただきます。谷秦山の学問の特徴は、実証を大切にし、論理的に真理に迫るという学問体系です。そして、その中で天文暦学に興味を持ち、京都の山崎闇斎に入門した際に、天文暦学の渋川春海にも学びます。谷秦山は、実地観測を重視し、天球儀、地球儀、望遠鏡など天体観測の測定器を使い、元禄7年、1694年に高知城の北緯を33度半と測定しています。32歳のときです。今から320年以上前に正確な天体観測を行っていたことは驚きです。
高知県は、来年高知市との合築図書館オーテピアをオープンさせ、あわせて高知みらい科学館もオープンします。高知みらい科学館では、プラネタリウムの星空や宇宙に関するオリジナルプログラムによって、子供たちにこれまで以上にわかりやすく宇宙について教えられることになると思います。
そこで、高知県で最も早く天体観測を行った谷秦山の業績を紹介し、土佐の先人に学ぶコーナーも設けていると思うが、現状どのような企画を考えているのか、教育長にお聞きをいたします。
○教育長
次に、高知みらい科学館において、谷秦山の業績を紹介し、土佐の先人に学ぶコーナーも設けていると思うが、どのような企画を考えているのかとのお尋ねがございました。
議員より御紹介のありましたように、谷秦山先生は、土佐南学の高名な学者であると同時に、日本人による最初の暦を作成した渋川春海を師として、天文暦学を研究した土佐の天文学の先駆者でもあり、細川半蔵や川谷薊山などによるその後の本県の天文研究にも影響を及ぼしております。こうした本県の科学の先人を知り、その業績を学ぶことは、同じ郷土で育つ子供たちの自尊心を育むとともに、科学への関心を持つきっかけにもなると考えております。
高知みらい科学館は、高知市の施設ではありますが、その運営には県も積極的に参画し、来館者を深遠な科学の世界にいざなう科学館となるよう、現在開館に向けた準備を進めているところでございます。
常設展示では、「見て、触れて、感じて、作って、学び遊ぶ」体験型展示をコンセプトに、子供だけでなく大人の知的好奇心を満たすアイテムのほか、高知の科学・ものづくりゾーンでは、科学の先人を紹介するコーナーを設け、細川半蔵が設計したからくり人形の技術や谷秦山先生などの業績を紹介する予定です。
コーナーでの企画は現在もその詳細を検討中ですが、青少年の理科・科学離れが起きていると言われる中、科学館が、子供たちに科学の世界に目を開かせ、宇宙、天文への興味、関心を高める入り口となるよう、高知市とも協議を行ってまいります。
(7)新嘗祭献穀者について
○依光
私は、皇室について、土佐の先人がそうであったように敬愛の念を抱いていますが、その敬愛の念がどこから来るかといえば、皇室が大切にされる皇室らしさと日本の伝統を守る姿勢を尊敬しているからです。
天皇皇后両陛下が毎年御出席される、三大行幸啓という行事があります。これは全国植樹祭、国民体育大会、全国豊かな海づくり大会の3つですが、農漁村の暮らしを守る皇室の伝統を踏まえたものと言えます。
皇室は日本の農業をとても大切にされており、宮中行事の中でも新嘗祭は特に重要です。高知県を含む全国から新嘗祭献穀者が毎年選ばれ、宮中に新米を献上しております。また、先月行われた第20回全国農業担い手サミットinこうちには皇太子同妃両殿下の御臨席を賜り、盛況のうちに開催されました。皇室の農業を守る姿勢は、農業を担う県民にとって励みとなっていると思います。
高知県では、毎年の新嘗祭献穀者についての業務を行っていますが、農業者の誇りであり地域の誇りである事業なので、広く県民に知ってもらう取り組みができないか、農業振興部長にお聞きをいたします。
(農業振興部長笹岡貴文君登壇)
○農業振興部長(笹岡貴文君)
新嘗祭献穀者を広く県民に知ってもらう取り組みについてお尋ねがございました。
新嘗祭は、天皇陛下が、その年に収穫された米やアワなどを天地の神にお供えし、農作物の恵みに感謝するとともに、みずからも食される祭儀であり、議員のお話にもありましたように、日本の伝統を守り農業をとても大切にしておられる皇室にとりまして、宮中行事の中でも特に重要なものと承知しております。
本年10月に皇居でとり行われました新嘗祭には、知事みずからが各都道府県の献穀者とともに出席し、四国ブロック代表として、米の作柄などにつきまして天皇陛下に奏上いたしました。今後におきましても、新嘗祭には、でき得る限り知事みずからが本県を代表して献穀者とともに出席する予定です。
この新嘗祭に関する広報につきましては、市町村やJAで組織する実行委員会が実施します、お田植え式や抜穂式といった節目となる行事の開催に合わせて、県ホームページヘ行事概要を掲載するほか、県政記者室を通じて県内マスコミに情報提供しており、毎年新聞やテレビに大きく取り上げていただいております。
今後におきましても、献穀は生産者御本人や地域にとって大変名誉なことでありますので、他県の状況も参考にしながら広報に努めてまいります。
(8)甫喜ヶ峰森林公園を通じた教育について
○依光
次に、林業についてです。皇室と林業のかかわりは深く、天武天皇が、畿内の山から木を伐採することを禁止する勅令を天武5年、676年に発令していますが、これは森林伐採禁止令の最古の記録ということで、日本書紀にその記述があります。また、国土を守るための植林も皇室の伝統で、昭和53年5月に「防災もみどりできずくふるさとづくり」をテーマに開催された第29回全国植樹祭のために、昭和天皇が香美市の甫喜ヶ峰森林公園に行幸され、植樹を行っています。
甫喜ヶ峰森林公園は、現在では森林環境学習の拠点として、県内の小中学校、幼稚園、保育園の生徒児童に親しまれています。
高知県は、この甫喜ヶ峰森林公園を通じて子供たちにどういったことを伝えようとしているのか、林業振興・環境部長にお聞きをいたします。
(林業振興・環境部長田所実君登壇)
○林業振興・環境部長(田所実君)
まず、甫喜ヶ峰森林公園を通じて子供たちにどういったことを伝えようとしているのかとのお尋ねがありました。
甫喜ヶ峰森林公園は、議員のお話にありましたように、昭和53年に開催されました第29回全国植樹祭の会場として整備された後、県民の憩いの場、児童生徒の学習の場として多くの県民の皆様に親しまれています。
この公園では、102ヘクタールの広大で多様な森のフィールドを活用して、子供たちに、豊かな森に感謝し森林や山を守ることの重要性を伝え、理解と関心を深めてもらえるよう、木を育てる、木に親しむ、木を生かすの3つをテーマとして、さまざまな森林環境学習の支援を行っています。例えば、春と秋の山野草の観察、間伐体験やキャンプ、ネーチャーゲームなど、甫喜ヶ峰森林公園ならではの自然を生かした約180種類の多様なプログラムを提供しており、季節ごと、また年齢層に応じて、身近な自然を楽しみながら学習できるよう工夫しております。
今後とも、この公園の特色である豊かな自然とこれまで培ってきた森林環境学習のノウハウを生かして、子供たちが、森の恵みのありがたさや森林とともに生きることの大切さなどについて、四季折々の自然の中で五感を通して学び、日本一の森林県である高知県に生まれ育ったことを誇りに思えるよう取り組んでまいります。
(9) 全国豊かな海づくり大会の効果について
○依光
次に水産業です。来年は、第38回全国豊かな海づくり大会の本県での開催が予定されており、先日開催日が10月28日に決定しました。この大会を契機として、水産業の振興と地域の活性化が期待されます。この全国豊かな海づくり大会の開催によって、高知県水産業に従事する方々が誇りと志を持って高知県水産業を発展させていただく契機になるのではと思います。
そこで、今回の全国豊かな海づくり大会を通じてどういった効果が期待できるのか、水産振興部長にお聞きをいたします。
(水産振興部長谷脇明君登壇)
○水産振興部長(谷脇明君)
来年本県で開催される全国豊かな海づくり大会を通じて、どういった効果が期待できるのかとのお尋ねがございました。
全国豊かな海づくり大会は、水産資源の保護、管理と海や河川などの環境保全の大切さを広く発信するとともに、漁業の振興と発展を図ることを目的として、昭和56年の第1回大会が大分県で開催されて以来、毎年各地で開催されている大会です。
本県で全国豊かな海づくり大会を開催できますことは、県民一人一人が、森と川からつながる豊かな海を守り育むことの大切さを改めて理解していただける機会となるとともに、カツオの一本釣りなど長年培われてきた本県の伝統ある漁法や、クロマグロの人工種苗生産の取り組みなどの新たな挑戦について、全国に向けて発信することができる絶好の機会になるものと考えております。
また、県外から多くの方々を御招待し、本県へお越しいただくことになります。「志国高知 幕末維新博」の第2幕が開催されている時期でもあり、観光部門とも連携して、本県の魅力である豊かな自然や食、歴史、文化などにつきましても相乗効果のあるPRに努めていきたいと考えております。
先日、大会の開催日も正式に決定し、大会開催に向けた準備も本格化してまいります。この大会が、参加される方々や県民の皆様にとって意義深く記憶に残るものとなりますよう、水産団体を初め多くの関係者の皆様の御理解と御協力をいただきながら、万全の準備を進めてまいります。
(10)林業大学校の人材育成について
○依光
次に、明治天皇、大正天皇と高知県にかかわりのある事柄から質問させていただきます。明治天皇は、明治維新により御自分の意思とは関係なく、満14歳で御即位されます。この若い明治天皇を支えたのは土佐の志士たちで、宮内大臣としては、土方久元、田中光顕、また明治天皇の教育を担当する侍補として佐々木高行がいました。
この明治天皇が崩御された後の大正時代に、明治神宮の造営が始まります。何もない原野に鎮守の森をつくるという大変困難な事業で、当時の林学の最先端の研究を結集して進められました。この事業には、全国からの多額の寄附、そして約10万本、365種にも上る全国からの献木があったそうです。また、一般財団法人日本青年館が発行している、明治神宮と青年団の造営奉仕という本の中で、全国209の青年団による延べ11万人の勤労奉仕が紹介されています。高知県からも600人の参加があり、高知県香美郡青年団60名の集合写真も掲載されています。全国から集まった若者は、造営局が用意したバラック宿舎で10日間の共同生活を送り、夜は講話を聞き、また東京の視察も行ったのだそうです。明治神宮は、若者の自発的な奉仕によってつくられ、その奉仕団でともに学んだ青年たちが故郷に帰り、林業の発展、地域の発展に尽くすという人材育成事業でもあったそうです。
現在、神宮外苑で建築中の新国立競技場は、高知県とゆかりの深い隈研吾さんの設計です。隈さんは、先月新校舎の落成式が行われた香美市の高知県立林業大学校の初代校長に御就任されることになっています。明治神宮の造営に参加した若者が故郷に帰って日本の林業を支えたように、新たな林業大学校も、日本の林業を牽引する学校になっていただきたいと思います。
そこで、高知県は、新たにスタートを切る林業大学校においてどのような人材を育てていこうとしているのか、林業振興・環境部長にお聞きをいたします。
○林業振興・環境部長
次に、林業大学校における人材育成についてお尋ねがありました。
県では、森林率全国1位の豊富な森林資源をダイナミックに活用することにより、林業の振興や中山間地域の活性化を進めています。
そのかなめとなる林業の担い手の育成・確保を目的に、平成27年4月に林業学校を創設し、短期課程と基礎課程を先行して開講しました。
基礎課程は、林業の現場で即戦力となる人材を育成するため、1年間で林業に関する知識や技術を基礎からしっかりと学び、林業分野に就業する上で必要な12の資格も取得できるなど、実践型のカリキュラムとなっています。この2年間で33名が卒業し、全員が県内の林業関係の仕事についています。
来年4月からは、新たに専攻課程を開設し、世界的な建築家である隈研吾先生を初代校長にお迎えして、林業大学校として本格開校することとしています。
この専攻課程では、森林管理、林業技術、木造設計の3つのコースにおいて、林業のエキスパートから木造建築を提案できる建築士まで、幅広い担い手を1年間で育成することとしています。そのカリキュラムは、森林の機能や林業経営など幅広い知識を習得できる共通科目とそれぞれの分野についての専門科目で構成されており、各分野の第一線で活躍されている一流の講師陣による充実した授業やフィールドワークにより、実践力と応用力が身につく内容となっています。
林業大学校では、隈校長のもと人材育成の拠点として、全国から志を持った人材が集まり、新しい森や木の文化と技術を世界に発信できる若者たちのプラットホームとなることを目指してまいりますとともに、知識や技術の向上のみならず、森林や木に対する理解を深め、木を愛する情熱を持って林業や木材産業の再生に取り組み、本県のみならず将来の日本をリードするすぐれた人材を育成していきたいと考えています。
(11)土佐人が明治維新で果たした役割を踏まえ、今後の高知県が日本にどのような役割を果たすべきかについて
○依光
最後に、大正天皇です。大正天皇と聞いてまず高知県民が思い出すのが、久礼大正町市場ではないかと思います。大正4年に久礼の大火によって230戸が焼けた際に、大正天皇より当時のお金で350円が復興費として届けられ、感激した町民により大正町市場に改名したということです。
現在の天皇皇后両陛下も、日本のあらゆる災害復旧現場に御訪問になり、被災された方々を励まされております。多くの国民もボランティアとして参加し、また被災された方々の落ちついた振る舞いは世界から称賛されました。この国民性は日本人の美徳です。
この美徳は海外にも伝わっており、その代表として台湾があります。台湾には、リップンチェンシンという言葉があり、漢字で書くと、日本精神となります。台湾では、あの人はリップンチェンシンだというと、真面目で勤勉で堅物の人を指すのだそうです。なぜこの言葉が生まれたかといえば、日本が台湾を統治していた時代に台湾の方が日本人に対して持ったイメージであり、敬意をもって見習おうとした名残だと思います。
戦前、戦中の日本の教育は軍国教育という洗脳であったと思われがちですが、台湾の人にとっては全く違うようで、私がお会いした台湾のおじいさんは、小学校のときに習ったという先生を恩師と呼び、本当に立派で優しい先生でしたよと日本語で語ってくれました。また、国交が結ばれ日本に旅行できるようになった際に、先生を訪ねて再会したともおっしゃっておられました。
台湾は、東日本大震災のときに、国民向けのチャリティー番組を放送するなどして、多くの台湾の方々がお金を出し合い、最終的に200億円の義援金を送ってくれました。また、台湾の皆さんが日本に旅行するのは、台湾統治時代に教育を受けた世代が、子供や孫の世代にも日本のよい印象を伝えたからだということです。
また、日本の外国に伝わった美徳として、移民された方のことにも触れたいと思います。昨年9月に、眞子内親王殿下も御臨席された、パラグアイ日本人移住80周年記念祭典へ出席させていただきました。ブラジル、アルゼンチンも含めた南米3カ国を訪問させていただいたのですが、印象に残ったことは、日本語学校において日本の美徳について子供たちにしっかりと教えていること、そして県人会などの日本関係の施設で皇室の家族写真が当たり前に飾られていることでした。皇室への敬愛の念をストレートに表現されていることに驚くとともに、皇室や愛国心について語ることがタブー視される日本のほうがおかしいのではと感じたことでした。
私は、来年の明治維新150年を契機に、尊王土佐人としての自信と誇りを呼び覚まし、土佐の志士たちのごとく、自分の地域は自分たちで守るという気概を持って頑張りたいと思います。
長々と話をしてきましたが、土佐人が明治維新で果たした役割を踏まえ、今後の高知県が日本にどのような役割を果たすべきか、知事の御所見をお聞きいたしまして、私の1問目といたします。
○知事
次に、土佐人が明治維新で果たした役割を踏まえ、今後の高知県が日本にどのような役割を果たすべきか、お尋ねがございました。
幕末維新期においては、日本国内では市場経済領域などの拡大、世界では産業革命などの進展という大きな時代の変化がゆっくりと進んでいく中、黒船来航などを契機として一挙に動乱期に突入し、近世から近代へと歴史は大きく動いていきました。この中で当時の土佐人は、自由民主主義、貿易立国の推進といった時代の大きな流れを指し示す、そうした役割をも果たしたものと考えます。
現代の日本においても、世界的にはグローバル化の進展など、国内的には人口減少の進展などといった大きな変化が緩やかに進んでいっております。何かをきっかけにハレーションを引き起こす前に、これらの大きな変化にあらかじめ対処していくことが求められます。現代の高知も、こうした時代の大きな流れの中において、時代の方向感にかかわる重要な役割を果たせるものと思います。私としては、人口減少問題、そして関連する問題としての中山間対策、さらには南海トラフ地震対策という少なくとも3つの課題については、その一つの処方箋を示す、そうした役割を高知は果たしていけるのではないかと思っています。
第1の人口減少問題については、本県は、全国に先駆けて平成2年より本格的な人口減社会に突入し、それに伴う経済の縮み、地域の福祉の崩壊という厳しい状況を経験してまいりました。これに対して、地産外商の取り組みや高知型福祉という意図的な福祉ネットワーク構築の取り組みなどを経て培ってきたノウハウは、今後本格的に人口減社会に突入する日本全体にとっても有益なものとなり得ると考えております。幕末・明治期の日本も、国を開くことを通じて国の発展を図りました。人口減少打開の鍵は、日本各地における地産外商と福祉ネットワークの構築にあると思っております。
第2に、中山間問題については、中山間は決して一方的に支えられる存在などではなく、むしろ強みであるとの考え方に基づき、それを生かすべく全力を挙げてまいりました。日本の自然豊かな田舎を強くすることは、東京など世界に冠たる日本の大都市の強みを生かすことと並んで、日本の潜在力を生かし切ることにつながる極めて重要なアジェンダだと考えます。幕末期の日本も、薩長土肥という強い地方が日本を救いました。強い地方は、今後の日本においても必要な存在であります。
第3に、南海トラフ地震対策を初めとする災害対策について、この分野が本県のノウハウを生かすべき分野であることは言うまでもありません。
いずれも、我が国の中長期的な発展を確保するために、国民の一人一人の幸せを保ち伸ばすために必要な課題であります。本県の経験を生かして、これらについて一つの処方箋を示すべく、機を捉え、発信、貢献してまいりたいと考えております。
私からは以上でございます。
○15番(依光晃一郎君)
ありがとうございまし
た。
知事から、力強い日本における高知県の役割について、強い地方、強い高知県をつくるというお話がありまして、自分も本当にそのとおりだと思います。明治維新から何を学ぶべきかといったときに、私自身が思うのは、自分の地域を自分で守る、自分たちの国は自分たちで守る、その意識ではないかと思います。来年に向けしっかりと勉強して、来年も皆様方とともに強い地方、強い高知県をつくりたいと思います。皆様よろしくお願いします。一切の質問といたします。ありがとうございました。(拍手)
○議長(浜田英宏君)
暫時休憩いたします。
○議長(浜田英宏君)
これより日程に入ります。日程第1、第1号「平成29年度高知県一般会計補正予算」から第28号「高知県公立大学法人定款の変更に関する議案」まで、以上28件の議案を一括議題とし、これより議案に対する質疑並びに日程第2、一般質問をあわせて行います。15番依光晃一郎君。
(15番依光晃一郎君登壇)
○15番(依光晃一郎君)
早速質問させていただきます。平成29年も残りわずかとなりました。ことしは大政奉還から150年、そして来年は明治維新150年の年です。この節目の年は、日本各地で歴史観光に関するイベントが行われ、また明治維新に関しての書籍が多く出版されるなど、過去の歴史を振り返ってこれからの日本のあり方を考えるよい機会ともなっております。
我が高知県においては坂本龍馬先生を初め多くの幕末の志士を輩出し、また明治となってからも中江兆民先生を初めとする自由民権運動にも人材を輩出していることから、明治維新を高知の郷土史と捉えて、高知県独自の検証をするということもできるのではないかと思います。
私は、明治維新というのは日本の政治史において、日本の政治体制はこうあるべきだと目指すべきビジョンを正確に指し示したものであり、また土佐の先人たちがそのビジョンに対して命がけで取り組んだのだと理解をしております。大政奉還150年を契機に、土佐の先人の理想を思い出すことによって土佐人としての自信と誇りを再確認するきっかけにしたいと思い、質問をさせていただきます。
いつもどおり説明が長くなりますが、お許しいただきたいと思います。また、土佐の先人には先生とお呼びすべきところですが、若干くどくなりますので敬称を略させていただくこともお許しください。
さて、幕末のキーワードの中に尊王攘夷運動という言葉があります。私は、この言葉の意味を、日本人が日本人の手で日本を守るために江戸幕府とは違った国をつくるべく、皇室の権威を旗印に新しい政治システムを生み出そうとした運動というように捉えています。明治維新は、黒船来航に象徴されるように外国からの軍事的な圧力がきっかけで起こりました。当時の東南アジアや中国の清王朝は、西洋列強に戦争で敗れ植民地化されていきます。そのことを憂いた草莽の志士、また実際に政治を担っていた江戸幕府の幕臣、雄藩の藩士たちはそれぞれの立場で奮闘をします。日本中が新しい政治体制を模索する中で、公武合体論、倒幕論などが生まれ、最終的に大政奉還という形で江戸幕府は幕をおろしました。
それでは、我々の先祖である土佐の先人たちが理想とした政治体制はどういったものだったのでしょうか。私は、幕末の時点で既に庶民も政治参加できる民主主義国家を目指していたのだと考えています。
高知県では、現在「志国高知 幕末維新博」ということで、高知県各地の資料館などで当時の手紙や文書などが公開されています。新国家という言葉で有名になった、龍馬が暗殺される5日前に書いた手紙などは高知県観光の新たな目玉となりました。私は、この貴重な資料に光を当てる取り組みをさらにパワーアップさせ、来年度の明治維新150年に向けて、土佐がリードした民主主義国家への歩みをもっと打ち出せないかと思うところです。特に、大政奉還より4カ月前の6月に土佐藩と薩摩藩の間で結ばれた薩土盟約に関する資料は重要です。
薩土盟約というのは、大政奉還という平和的に幕府を倒すという土佐藩の考え方に薩摩藩が同調した盟約で、結果的には武力討伐を目指した薩摩藩と意見が合わず決裂したというものです。この会議の出席者は、土佐藩から後藤象二郎、寺村左膳、真辺栄三郎、福岡孝弟、薩摩藩から小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通、陪席いわゆるオブザーバーとして坂本龍馬、中岡慎太郎というものです。薩土の幕末のスター勢ぞろいというおもしろさに加え、大政奉還か武力倒幕かという緊迫した会議という点でも、もっと注目されてよいのではと思います。そして、何より土佐藩が民主主義国家を目指していた証拠が明確に示されているという点で、大いに注目すべきです。
この盟約は7カ条から成る約定書で、その3番目には「議事院上下に分ち、議事官は上公卿より下陪臣・庶民に至まて正義純粋の者を選挙し、尚且諸侯も自ら其職掌に因て上院の任に充つ」と記されています。現代文に訳すと、上院と下院を分け、議員は公卿から諸侯・陪臣・庶民に至るまで正義の者を選任し、諸侯も職掌によって上院に充てるとなります。庶民に至るまで正義の者を選任しという部分は、土佐の自由民権運動のスタートであると言えます。ちなみにこの文書は、大久保利通自筆の原本が鹿児島県歴史資料センター黎明館に残されています。
この薩土盟約は、先ほど述べたように解消され、土佐単独での大政奉還建白書として最後の将軍徳川慶喜に提出をされます。その中の別紙に建白の具体案が8項目あるのですが、その2番目に「議政所上下を分ち、議事官は上公卿より下陪臣・庶民に至まて正明純良の士を選挙すへし」と、薩土盟約の内容を引き継いだものが示されています。この内容は、高知城歴史博物館で11月27日まで展示されており、議会は上下二院に分け、議員は上は公卿、下は藩士・庶民に至るまで、身分を問わず人格にすぐれた人物を選挙すべきですと、現代文もありました。
ちなみに、選挙という言葉ですが、現代的な意味での選挙については当時は入れ札という言葉が一般的だったということで、本日は選任という意味で解釈しています。一方で、高知城歴史博物館は、原本の選挙をそのまま選挙と訳していますが、アメリカの政治制度を学んだジョン万次郎の影響を受けた土佐の志士が、現代的な選挙を目指していたというのも否定はできないことと思います。
大政奉還建白書は最終的に明治天皇が宣言した五箇条の御誓文につながるのですが、そこでは「広く会議を興し万機公論に決すべし」という文言となって国民に示されます。ちなみに、起草者の一人である土佐の福岡孝弟は「列侯会議を興し万機公論に決すべし」という文言で起草しています。議会を列侯会議と改め、大名や公家が国政について話し合う、幕末の諸侯会議に近い政治体制です。薩土盟約に参加していた福岡孝弟ですので、なぜ庶民についての文言を入れられなかったかと悔やまれます。もし入っていたのなら、明治新政府は現代の政治体制に近い形になっていたはずです。このことこそが、坂本龍馬が生きていれば世の中が変わっていただろうにという大きなポイントかもしれません。この「列侯会議を興し」は、木戸孝允によって「広く会議を興し」に修正されます。
最後に、高知県出身の吉田茂総理が、戦後の昭和21年6月25日に衆議院本会議にて五箇条の御誓文について述べておりますので御紹介をいたします。「日本の憲法は御承知のごとく五箇条の御誓文から出発したものといってもよいのでありますが、いわゆる五箇条の御誓文なるものは、日本の歴史、日本の国情をただ文字にあらわしただけの話でありまして、御誓文の精神、それが日本国の国体であります。日本国そのものであったのであります。この御誓文を見ましても、日本国は民主主義であり、デモクラシーそのものであり、あえて君権政治とか、あるいは圧制政治の国体でなかったことは明瞭であります」。この日本国憲法案の審議で述べられた内容は、吉田茂総理が土佐がリードした民主主義国家の理想を改めて述べられたものであり、土佐人の一人として誇りに思うところです。
(1)「志国高知 幕末維新博」を通じて、県民や県外観光客に伝えたいことについて
長々と話をさせていただきましたが、まず最初に、「志国高知 幕末維新博」を通じて高知県民に、また県外から来られる観光客の皆さんに伝えたいことについて知事にお聞きをいたします。
(知事尾﨑正直君登壇)
○知事(尾﨑正直君)
依光議員の御質問にお答えをいたします。まず、「志国高知 幕末維新博」を通じて県民や県外観光客の皆様に伝えたいことについてお尋ねがございました。
平成29年と平成30年は、日本の転換点となった大政奉還と明治維新から150年に当たり、日本全体として歴史に注目が集まる年でありますとともに、幕末から明治維新にかけて多くの偉人を輩出し当時の日本をリードしてきた本県にとりましても、特にかかわりの深い節目の年であります。
「志国高知 幕末維新博」は、こうした節目の年に、高い志を持った多くの若者が生まれた風土や、彼らを育んだ時代につながる食や自然、文化を知っていただくとともに、当時地方にありながらも志を抱き世界を視野に行動した人々に思いをはせ、未来を切り開いていこうとする心を育むきっかけにしていただくことも目的として開催をしており、観光振興だけでなく、特に若い人たちに土佐の歴史や先人の業績を学んでいただきたいという目的もございます。
幕末期、土佐には、土佐勤王党の結成や命がけの脱藩など、個人的な利害損得を打ち捨てて日本の国難を我がこととし、日本を何とかしようとしたたくさんの人々があらわれました。私は、このような土佐の先人たちに大変誇りを感じています。脱藩したのは坂本龍馬先生だけではありません。幕府に対して戦いを挑んだ吉村虎太郎先生、那須信吾先生など、志を立て行動を起こした人々の足跡がたくさん残っています。
幕末維新博では、このような志士ゆかりの地を中心に、史跡や本物の資料を通じて、その功績はもとより幕末・明治維新期のリアル感が伝えられるように、しっかりと磨き上げを進めてきているところであります。
また、第2幕では、坂本龍馬先生の志を継いだ2つの系譜にもスポットを当てていきたいと考えております。1つは、岩崎弥太郎先生に代表される日本の産業革命を起こしていく多くの経済人たちの系譜、もう一つは、板垣退助先生を代表とする自由民権運動を起こしていった人物たちの系譜でございます。
私は、この「志国高知 幕末維新博」を通じて、土佐の幕末維新期の人とその志を見ていただきたいと思います。そして、その志を継いだ現代の高知の人を見ていただきたいと思っております。引き続き、第2幕の開幕に向けてもしっかりと準備を進めてまいります。
(2)明治維新150年の歴史を観光の目玉とする企画展示について
○依光
また、来年度の明治維新150年に向けて、先ほど御説明させていただいた薩土盟約、大政奉還建白書、五箇条の御誓文、吉田茂総理の日本国憲法案審議は、土佐がリードした日本の民主主義を語る上でおもしろい切り口ではないかと思います。
そこで、これらの資料を一堂に集めて流れをわかりやすく整理して展示し、明治維新150年の歴史を観光の目玉とする企画展示を計画してはと考えるがどうか、観光振興部長にお聞きをいたします。
(観光振興部長伊藤博明君登壇)
○観光振興部長(伊藤博明君)
まず、明治維新150年に向けて、薩土盟約や大政奉還建白書など、土佐がリードしてきた日本の民主主義に関係する資料を一堂に集め、わかりやすく展示し、観光の目玉とする企画展示を計画してはどうかとのお尋ねがありました。
お話のあった、これらの資料を一堂に集めてストーリー立てて展示することは、幕末・明治維新期に果たした土佐人の功績、役割を語る上で大変魅力的な展示になるものと思います。
幕末維新博では、お話のあった資料に関連するものとして、本年9月から11月までの間、メーン会場である高知城歴史博物館の特別企画展、大政奉還と土佐藩の中で、大政奉還建白書の写しや坂本龍馬記念館所蔵の由利公正が後年になって書いた五箇条の御誓文など、県内で有する資料について展示をしてまいりましたし、幕末維新博で展示をさせていただきたい貴重な資料については、議員からお話のあった資料を含めまして、博覧会開催が決まって以降、所有・保管元の施設などに貸し出しの要請や調整を続けてきたところです。
しかしながら、大政奉還から150年、明治維新から150年という全国的に節目の年ということもあり、全国各地から展示要請が寄せられていることに加えて、1年間に展示できる日数が制限される資料もあり、こちらの希望の日時に合わせてお借りすることが大変難しい状況となっております。
お話のあった資料も既に来年の年間展示計画が決まっておりますので、これらを本県に一堂に集めて展示することはかないませんが、土佐がリードした歴史のストーリー立てにつきましては、専門家に相談して取り組みたいと考えておりますし、幕末維新博では、来年においても貴重で魅力ある資料の展示に向けた取り組みを続けていきたいと考えております。
(3) 尊王思想を持っていた板垣退助と中江兆民について
○依光
次に、民主主義的な国家像と皇室との整合性について、土佐の先人が自由民権運動を通じてどう考えたかを前提に、皇室について考える土壌づくりをしたいという趣旨で質問させていただきます。
私は、尊王攘夷運動について、日本人が日本人の手で日本を守るために江戸幕府とは違った国をつくるべく、皇室の権威を旗印に新しい政治システムを生み出そうとした運動と定義しました。先ほど見た資料のそれぞれに、皇室の権威を旗印にしたことの証明となる文言があります。薩土盟約では、1番目に「天下の大政を議定する全権は朝廷にあり」とあります。大政奉還建白書でも全く同じ文言が使われています。
このことから明治維新は、明治天皇を絶対君主にした政治体制を構築しようとするもので、民主主義政治とは最も遠い政治体制だとの反論が出るのではと思います。明治天皇が国の全てのことを決め、また国民に命令をして自分に対する反対は認めないというような体制を目指したのだという反論です。
なるほど、日本を除く諸外国の王政は絶大な政治権力を持ち、巨大な宮殿を建てて人民を支配しました。しかし、私は、中国の皇帝のように絶対的な権力を持つ王として明治天皇を位置づける国づくりを、幕末の日本人が考えていたということについては絶対にあり得ないと考えています。なぜなら、日本人は、絶対王政が政治腐敗と国内の混乱を生み、やがて国が滅ぶということをよく知っていたからです。その証拠に、江戸時代の寛政期ごろには、安定した皇室を持つ日本を世界に冠たる国として誇る意味で、皇国という言葉が生まれます。ころころと皇帝がかわる中国の政治体制を念頭に置いたものと思います。ちなみに、皇国とは大日本帝国の別名として生まれたのではなく、中国と比べた政治体制という意味であったことをつけ加えておきます。
では、土佐の先人は民主主義国家と皇室の整合性についてどう考えていたのかを見てみます。
まず最初に、自由民権運動の板垣退助です。板垣は、明治15年に「自由党の尊王論」という論文を発表しています。薩長藩閥政府は強権政治を行うことで結果的に皇室を危うくしている、明治天皇が五箇条の御誓文で「広く会議を興し万機公論に決すべし」と神に誓う形で示された趣旨に立ち返り、民選国会を開き、自由な議論による政治を目指せと主張します。皇室を守っていくためにも民選国会が必要という主張です。
次に、東洋のルソーと言われた中江兆民を見ます。中江兆民は、絶対君主ルイ16世が処刑されたフランス革命を紹介したことから皇室について否定的であったと思われがちですが、皇室の重要性を積極的に説いた尊王土佐人の一人です。
明治20年に「平民のめさまし」という本を出版しています。明治22年、大日本帝国憲法制定、翌23年、第1回総選挙、第1回帝国議会に先駆けた出版です。第1章国会、第3章上院下院、第6章選挙の方法など、民主主義を国民にわかりやすく伝える内容です。ここで注目すべきは第2章の君主という項目で、民主主義国家における天皇の位置づけについて解説し、内閣が倒れようと国会で激しい論争が起ころうとも、天皇の地位は絶対に揺るがないと国民が安心できるように記述をしています。この内容は、高知市民図書館・近森文庫の蔵書が、国文学研究資料館のデジタル版としてインターネットで見られます。
フランスに留学し、革命後のフランス民主主義体制の混乱を知っていた中江兆民は、いつも国民に寄り添おうとする皇室の伝統的な政治姿勢が、国会の激しい論争による国民の分断に対して抑止力となると期待していたのではと感じます。この「平民のめさまし」には、皇室について「御世ごとに聡明仁慈にわたらせ給ひ、民を恵むこと父母のごとし」と書いています。皇室の伝統的な政治姿勢をたたえ、だからこそ日本の民主主義はヨーロッパ諸国に負けないのだという自尊心を表現したのだと思います。
また、板垣退助の、薩長藩閥政府の強権政治が国民の政治不信を生み皇室を危うくするという考え方は、昭和の太平洋戦争開戦という政治の失敗を予言していたようにも思います。帝国議会開設の後、薩長藩閥政治は終わりを告げますが、皇室の権威を盾に議会を超える権力を持つに至った軍部が台頭します。そして、日本は焼け野原になりました。
私は、明治維新150年に当たって、板垣退助の「自由党の尊王論」、中江兆民の「平民のめさまし」の2つについて、まずは高知県内において再評価できないかと考えています。
今月1日の皇室会議により、天皇陛下の御退位が平成31年4月30日、新天皇陛下の御即位が翌5月1日と決まりました。天皇陛下の退位に関する議論は、私はスムーズに進んだと感じておりますが、一方で国民が皇室のあり方、今後の皇位の安定性についてしっかりと議論ができたとは思っていません。その理由として、皇室について語ること、また皇室についての敬愛を言葉にして伝えることについて、タブーと感じている国民が多いからだと感じております。
私は、皇室が今後も続いていくことを願っている一人です。そういう意味では、皇位継承者が減少し、安定した皇位継承に不安のある現状について、尊王思想のルーツを持つ高知県から議論を深めることができないかと考えるところです。明治維新で活躍した志士が尊王の志士である以上、そのことに誇りを持ち、その遺志を受け継いで皇位継承の議論を深めることは責務であるとも思います。
そこで、私は、尊王思想を持っていた板垣退助と中江兆民について、県民にさらに知っていただくための取り組みが必要と考えますが、文化生活スポーツ部長にお聞きをいたします。
(文化生活スポーツ部長門田登志和君登壇)
○文化生活スポーツ部長(門田登志和君)
板垣退助先生と中江兆民先生を県民にさらに知っていただくための取り組みについてお尋ねがございました。
板垣退助先生と中江兆民先生は、ともに自由民権運動に大きな役割を果たした郷土の偉人であり、これまでも、「志国高知 幕末維新博」を契機に作成しました冊子、幕末維新の土佐人物紹介でその人物像を紹介しておりますほか、高知城歴史博物館や文学館において、板垣退助先生の系図や中江兆民先生の全集などを展示公開してまいりました。
来年は、明治維新から150年に当たる節目の年でありますことから、4月にグランドオープンする坂本龍馬記念館も含め、県立文化施設におきまして明治維新に関連するさまざまな企画展を開催する中で、多くの県民の皆様に、板垣退助先生や中江兆民先生など、郷土の偉人の功績や志に触れる機会を創出していきたいと考えております。
(4)土佐の民主主義についての郷土史副読本について
○依光
先ほど、板垣退助の「自由党の尊王論」の中で、薩長藩閥政府の強権政治が国民の政治不信を生み皇室を危うくするという考え方を御紹介しましたが、逆に考えれば、日本において、成り上がりの権力者は皇室の権威を利用することで国を治めることができるということになります。
明治新政府のメンバーも成り上がりなわけですから、当然に皇室の権威を利用して明治新政府を運営していきます。土佐の志士は、明治新政府が議会による政治を行うことに期待したはずです。実際に明治天皇は、五箇条の御誓文のとおり上下二院制の議会をつくり、直接的な政治は委任するという伝統的な皇室のあり方を望んで政体書を公布し、立法議事機関である議政官を含む七官を設置しています。しかし、明治新政府は、戊辰戦争終結の見通しがつくと議政官は3カ月で廃止、議会開設を先送りして、独裁的な藩閥政治を推し進めることになりました。
この皇室の権威を背景に独断政治を行う勢力に対抗するには、板垣が考えたように民主主義制度しかありません。つまり、選挙によって選ばれた議員が、その選ばれたということを背景にして政治を行うというものです。
この民主主義政治については、土佐藩は、ジョン万次郎を通じてアメリカの政治制度を学び、深く理解していたと考えられます。万次郎のアメリカの知識を記録した河田小龍の「漂巽紀畧」に、アメリカ大統領の記述があります。「多くの才能や学識を持った人達を推薦して、大統領を選ぶ。大統領の在職期間は四年を限度としている。しかし、もし徳が高く、政治の力が抜群であれば、なお、職を続けることが出来ることもある。在職中、一日の給料は銀千二百枚である。
全国の、才能があるものがこれに選ばれようと、相争ってここに集まる。今の大統領はテーラーと言い、その政策は法に則って厳正であるという。このように、政治や法律が行き届いているために、合衆国の政治にこれ以上付け加えることはないということである。」と記述をされています。ちなみに、この訳は、ウェルカムジョン万の会がホームページに載せています。
また、万次郎は、藩校、教授館の教授に登用され、後藤象二郎、岩崎弥太郎などを教えています。この下地があったからこそ、土佐が、民主主義政治を生み出すための自由民権運動発祥の地になったのだと思います。
そして、ついに大日本帝国憲法が自由民権運動の後押しを受け、アジア初の近代憲法として成立します。さかのぼること薩土盟約以来の念願であった、庶民も政治参加できる政治体制です。しかし、民主主義と天皇の位置づけについて完全に消化できず、混乱の種を残したことも指摘しておきます。
日本が政治的に混乱する際には、皇室のためにということを旗印にした勢力が、自分が考える理想的な政治体制を、時の天皇も望んでいるはずだと言って起こします。戦前の民主主義の最後のとりでとして忘れてはいけないのが、土佐の浜口雄幸総理です。ロンドン海軍軍縮条約は統帥権干犯であるとされ、右翼団体の凶弾に倒れます。この犯人は、浜口は社会を不安におとしめ、陛下の統帥権を侵した、だからやった、何が悪いと供述したといいます。皇室のためにといってテロを起こすことは五・一五事件、二・二六事件と続いていき、軍部の暴走をとめるべき民主主義政府不在のまま、太平洋戦争に突入します。浜口雄幸の受難は、さきの大戦を振り返り、民主主義とは何かを考える際の歴史的な教訓であると思います。
現在の民主主義についての学習は、政治的中立が言われ過ぎて、政策についての学習はまれで、選挙違反の事例を教えることが中心の学習内容であるとも聞きます。なぜ民主主義が大切か、なぜ選挙が必要なのか、また政治権力が選挙を通じて選ばれた政治家に付与されるのはなぜかなど、きちんと教えられていないのではと思います。
私は、高知県の生徒は、民主主義制度について、郷土史として土佐の先人の活躍を追っていくことで学習できるすばらしい環境にいると思います。土佐の自由民権運動、浜口雄幸の受難を土佐の郷土史として位置づけ、将来的には高知県独自の民主主義教育教材の作成をも目指すべきではないかと思うところです。
現在、高知県郷土史副読本が作成中と思いますが、土佐の民主主義についての先人の活躍をどのように盛り込んでいるのか、教育長にお聞きをいたします。
(教育長田村壮児君登壇)
○教育長(田村壮児君)
まず、土佐の民主主義における先人の活躍について、作成中の高知県郷土史副読本にどのように盛り込んでいるのかとのお尋ねがございました。
御質問のありました高知県郷土史副読本は、旧石器時代から現代までの高知県の偉人や出来事を時代順に叙述する形式であり、授業などでの活用を通して、子供たちの郷土に対する誇りや愛情を育むために作成しているものでございます。全体的には歴史の流れを重視して編集しておりますが、幕末以降は、坂本龍馬先生やジョン万次郎先生などの特に重要な偉人をトピックスとして取り扱うことで、高知の先人たちがどのような思想・信条を持ち、どのような業績を上げ、日本の発展にどのような影響を与えたのかについて、生徒たちが興味を持ちながら理解できるよう工夫をしております。
お話のありました、日本の民主主義の充実・発展に貢献した浜口雄幸先生などの高知の偉人につきましては、当時の日本や高知の政治、社会のさまざまな課題に信念を持って立ち向かったことを、副読本の中で取り上げております。現在作成中の副読本は、来年4月に県内の中高生に配付し、社会科、地理歴史科、総合的な学習の時間などで積極的な活用を図ってまいります。そして、郷土を知り、郷土の歴史に関心を抱いた子供たちに、高知城歴史博物館を初めとする県内の諸施設を利用しながら、主体的に土佐の民主主義について学んでもらいたいと考えております。
(5)谷秦山を広く県民や観光客に伝えることについて
○依光
次に、なぜ土佐の先人が尊王についての自我を持ったかについて考えてみたいと思います。
私は、土佐南学の谷秦山に源流を見ています。
土佐南学は、室町時代末期に儒者南村梅軒が土佐で朱子学を講じたことを始まりとし、谷秦山は中興の祖として元禄年間に活躍をします。その特色は、大義名分という朱子学が重んじる、誰が君主で誰が臣下か、またそれぞれの立場で守るべきことは何かという学問を、神道古典の研究と土佐の歴史の実証的研究をあわせて、論理的に明らかにしたことです。谷秦山は、皇室と幕府の二重権力の関係について、明確に皇室が君主と示した上で、どうして政権が幕府にあるのか解説します。この学問体系が、土佐の尊王思想の根拠として幕末にまで影響を与えていきます。
谷秦山の著作に「保建大記打聞」というものがあります。江戸時代前期に水戸藩の朱子学者栗山潜鋒が書いた尊王論の書物である「保建大記」について、谷秦山が講義したものを、弟子が講義録としてまとめたものです。この「保建大記打聞」は、吉田松陰が野山獄で読んだと読書記の中に記述があり、遠く山口県まで伝わるなど、谷秦山の影響力の大きさがわかります。
ちなみに、この尊王論は、太平洋戦争末期の神がかった尊王論ではなく、むしろ皇室が政権を奪われたのは皇室が道義を失い徳が至らなかったからだと皇室を批判し、叱咤激励するものであったことをつけ加えておきます。
現在、幕末維新博が高知県全域で開催されていますが、土佐の志士は高知県内のあらゆる土地から出ていることが特色となっております。中岡慎太郎が北川村でどういった教育を受けたのか、津野町で生まれた吉村虎太郎が何に影響を受けて遠く故郷を離れ吉野で命を散らすことになったのか、こういった志士たちの情熱と行動の源は、谷秦山の学問にルーツがあります。
谷秦山の学問は、皇室が、徳川将軍家、土佐山内家にまさる存在ということを大義名分論として明らかにし、また神道古典の研究によって庄屋のアイデンティティーを呼び起こすことで、後の天保庄屋同盟を生んでいきます。天保庄屋同盟とは、簡単に言えば、庄屋という役職のルーツは日本書紀にまでさかのぼることができ、朝廷から土地と人民を預かっている存在である、だから山内家の侍に理不尽なことを言われたら、協力してその侍と戦い人民を守るという密約です。谷秦山の、皇室こそがあるじという考え方と神道古典の研究成果が、天保庄屋同盟を生んだと言えます。
この学問は、長男垣守、孫真潮と代々受け継がれ、その子孫の谷干城も当然学びます。谷家の家訓として伝えられていたことについて、谷干城が語るところによると「万一、国の大動乱がおこったならば、何をおいても、京都へのぼれ。のぼって天子さまをお守り申しあげよ。もし旅費がない時は、乞食をしてのぼれ。御所をお守り申しあげて、力尽きたらば、御所の塀によりかかって死ね。死んでも御所をお守りするのだ」という内容であったそうです。まさに土佐の尊王の志士の行動の原点が見えます。
ちなみに、坂本龍馬の4代前の坂本八郎兵衛が谷秦山に学び、長男垣守と親交があったと言われており、坂本龍馬の尊王のルーツも谷秦山と言えます。
谷秦山は、香美市土佐山田町にお墓があり、学問の神様ということで、県内外から受験シーズンには多くの参拝者が訪れます。このお墓の管理と毎年2月の墓前祭を行っている組織が高知県秦山会です。大正7年に結成されました。戦後、長らく絶えていたのですが、昭和37年に溝淵知事を会長にして再結成されます。
現在の高知県では、谷秦山は余り知られていないのではと思いますが、土佐の幕末維新は谷秦山なくしてはあり得ず、来年の没後300年に合わせて広く県民に知っていただくことができないかと考えるところです。そこで、香美市には、現在幕末維新博に関する地域会場がないのですが、土佐の尊王の源流に触れてもらうべく、来年の明治維新150年のパンフレットなどに紹介していただいたり、香美市観光協会の企画への支援をお願いできればと思います。
谷秦山を広く県民、観光客に伝えることについてどうか、観光振興部長にお聞きをいたします。
○観光振興部長
次に、谷秦山先生を広く県民や観光客に伝えることについてお尋ねがありました。
谷秦山先生は、土佐藩における著名な儒学者であり、土佐から多くの志士たちを生み出す原動力となったと言われている土佐南学の継承、発展に大きな役割を果たされました。
「志国高知 幕末維新博」は、志を持った多くの若者が生まれた土佐の風土や、彼らを育んだ時代につながる食や自然、文化について、国内外の観光客の方々に知っていただくことを目的に開催しておりますので、谷秦山先生の功績をお伝えすることはこの博覧会の目的にも沿うものであると考えております。
谷秦山先生に関しましては、現在、高知県立文学館での幕末維新博関連展示においてその功績を御紹介しているほか、こうち旅広場の地域情報コーナーでは、学業成就にちなんだ香美市のスポットとして谷秦山墓所を御案内しているところです。
県としましては、これらに加えまして、幕末維新博のホームページへの掲載などの情報発信や、谷秦山先生没後300年に合わせて香美市や地元団体が観光資源として磨き上げを実施する際の支援についても検討してまいりたいと考えております。
(6)高知みらい科学館における谷秦山の業績紹介について
○依光
次に、谷秦山を土佐が生んだ科学者と捉えて質問させていただきます。谷秦山の学問の特徴は、実証を大切にし、論理的に真理に迫るという学問体系です。そして、その中で天文暦学に興味を持ち、京都の山崎闇斎に入門した際に、天文暦学の渋川春海にも学びます。谷秦山は、実地観測を重視し、天球儀、地球儀、望遠鏡など天体観測の測定器を使い、元禄7年、1694年に高知城の北緯を33度半と測定しています。32歳のときです。今から320年以上前に正確な天体観測を行っていたことは驚きです。
高知県は、来年高知市との合築図書館オーテピアをオープンさせ、あわせて高知みらい科学館もオープンします。高知みらい科学館では、プラネタリウムの星空や宇宙に関するオリジナルプログラムによって、子供たちにこれまで以上にわかりやすく宇宙について教えられることになると思います。
そこで、高知県で最も早く天体観測を行った谷秦山の業績を紹介し、土佐の先人に学ぶコーナーも設けていると思うが、現状どのような企画を考えているのか、教育長にお聞きをいたします。
○教育長
次に、高知みらい科学館において、谷秦山の業績を紹介し、土佐の先人に学ぶコーナーも設けていると思うが、どのような企画を考えているのかとのお尋ねがございました。
議員より御紹介のありましたように、谷秦山先生は、土佐南学の高名な学者であると同時に、日本人による最初の暦を作成した渋川春海を師として、天文暦学を研究した土佐の天文学の先駆者でもあり、細川半蔵や川谷薊山などによるその後の本県の天文研究にも影響を及ぼしております。こうした本県の科学の先人を知り、その業績を学ぶことは、同じ郷土で育つ子供たちの自尊心を育むとともに、科学への関心を持つきっかけにもなると考えております。
高知みらい科学館は、高知市の施設ではありますが、その運営には県も積極的に参画し、来館者を深遠な科学の世界にいざなう科学館となるよう、現在開館に向けた準備を進めているところでございます。
常設展示では、「見て、触れて、感じて、作って、学び遊ぶ」体験型展示をコンセプトに、子供だけでなく大人の知的好奇心を満たすアイテムのほか、高知の科学・ものづくりゾーンでは、科学の先人を紹介するコーナーを設け、細川半蔵が設計したからくり人形の技術や谷秦山先生などの業績を紹介する予定です。
コーナーでの企画は現在もその詳細を検討中ですが、青少年の理科・科学離れが起きていると言われる中、科学館が、子供たちに科学の世界に目を開かせ、宇宙、天文への興味、関心を高める入り口となるよう、高知市とも協議を行ってまいります。
(7)新嘗祭献穀者について
○依光
私は、皇室について、土佐の先人がそうであったように敬愛の念を抱いていますが、その敬愛の念がどこから来るかといえば、皇室が大切にされる皇室らしさと日本の伝統を守る姿勢を尊敬しているからです。
天皇皇后両陛下が毎年御出席される、三大行幸啓という行事があります。これは全国植樹祭、国民体育大会、全国豊かな海づくり大会の3つですが、農漁村の暮らしを守る皇室の伝統を踏まえたものと言えます。
皇室は日本の農業をとても大切にされており、宮中行事の中でも新嘗祭は特に重要です。高知県を含む全国から新嘗祭献穀者が毎年選ばれ、宮中に新米を献上しております。また、先月行われた第20回全国農業担い手サミットinこうちには皇太子同妃両殿下の御臨席を賜り、盛況のうちに開催されました。皇室の農業を守る姿勢は、農業を担う県民にとって励みとなっていると思います。
高知県では、毎年の新嘗祭献穀者についての業務を行っていますが、農業者の誇りであり地域の誇りである事業なので、広く県民に知ってもらう取り組みができないか、農業振興部長にお聞きをいたします。
(農業振興部長笹岡貴文君登壇)
○農業振興部長(笹岡貴文君)
新嘗祭献穀者を広く県民に知ってもらう取り組みについてお尋ねがございました。
新嘗祭は、天皇陛下が、その年に収穫された米やアワなどを天地の神にお供えし、農作物の恵みに感謝するとともに、みずからも食される祭儀であり、議員のお話にもありましたように、日本の伝統を守り農業をとても大切にしておられる皇室にとりまして、宮中行事の中でも特に重要なものと承知しております。
本年10月に皇居でとり行われました新嘗祭には、知事みずからが各都道府県の献穀者とともに出席し、四国ブロック代表として、米の作柄などにつきまして天皇陛下に奏上いたしました。今後におきましても、新嘗祭には、でき得る限り知事みずからが本県を代表して献穀者とともに出席する予定です。
この新嘗祭に関する広報につきましては、市町村やJAで組織する実行委員会が実施します、お田植え式や抜穂式といった節目となる行事の開催に合わせて、県ホームページヘ行事概要を掲載するほか、県政記者室を通じて県内マスコミに情報提供しており、毎年新聞やテレビに大きく取り上げていただいております。
今後におきましても、献穀は生産者御本人や地域にとって大変名誉なことでありますので、他県の状況も参考にしながら広報に努めてまいります。
(8)甫喜ヶ峰森林公園を通じた教育について
○依光
次に、林業についてです。皇室と林業のかかわりは深く、天武天皇が、畿内の山から木を伐採することを禁止する勅令を天武5年、676年に発令していますが、これは森林伐採禁止令の最古の記録ということで、日本書紀にその記述があります。また、国土を守るための植林も皇室の伝統で、昭和53年5月に「防災もみどりできずくふるさとづくり」をテーマに開催された第29回全国植樹祭のために、昭和天皇が香美市の甫喜ヶ峰森林公園に行幸され、植樹を行っています。
甫喜ヶ峰森林公園は、現在では森林環境学習の拠点として、県内の小中学校、幼稚園、保育園の生徒児童に親しまれています。
高知県は、この甫喜ヶ峰森林公園を通じて子供たちにどういったことを伝えようとしているのか、林業振興・環境部長にお聞きをいたします。
(林業振興・環境部長田所実君登壇)
○林業振興・環境部長(田所実君)
まず、甫喜ヶ峰森林公園を通じて子供たちにどういったことを伝えようとしているのかとのお尋ねがありました。
甫喜ヶ峰森林公園は、議員のお話にありましたように、昭和53年に開催されました第29回全国植樹祭の会場として整備された後、県民の憩いの場、児童生徒の学習の場として多くの県民の皆様に親しまれています。
この公園では、102ヘクタールの広大で多様な森のフィールドを活用して、子供たちに、豊かな森に感謝し森林や山を守ることの重要性を伝え、理解と関心を深めてもらえるよう、木を育てる、木に親しむ、木を生かすの3つをテーマとして、さまざまな森林環境学習の支援を行っています。例えば、春と秋の山野草の観察、間伐体験やキャンプ、ネーチャーゲームなど、甫喜ヶ峰森林公園ならではの自然を生かした約180種類の多様なプログラムを提供しており、季節ごと、また年齢層に応じて、身近な自然を楽しみながら学習できるよう工夫しております。
今後とも、この公園の特色である豊かな自然とこれまで培ってきた森林環境学習のノウハウを生かして、子供たちが、森の恵みのありがたさや森林とともに生きることの大切さなどについて、四季折々の自然の中で五感を通して学び、日本一の森林県である高知県に生まれ育ったことを誇りに思えるよう取り組んでまいります。
(9) 全国豊かな海づくり大会の効果について
○依光
次に水産業です。来年は、第38回全国豊かな海づくり大会の本県での開催が予定されており、先日開催日が10月28日に決定しました。この大会を契機として、水産業の振興と地域の活性化が期待されます。この全国豊かな海づくり大会の開催によって、高知県水産業に従事する方々が誇りと志を持って高知県水産業を発展させていただく契機になるのではと思います。
そこで、今回の全国豊かな海づくり大会を通じてどういった効果が期待できるのか、水産振興部長にお聞きをいたします。
(水産振興部長谷脇明君登壇)
○水産振興部長(谷脇明君)
来年本県で開催される全国豊かな海づくり大会を通じて、どういった効果が期待できるのかとのお尋ねがございました。
全国豊かな海づくり大会は、水産資源の保護、管理と海や河川などの環境保全の大切さを広く発信するとともに、漁業の振興と発展を図ることを目的として、昭和56年の第1回大会が大分県で開催されて以来、毎年各地で開催されている大会です。
本県で全国豊かな海づくり大会を開催できますことは、県民一人一人が、森と川からつながる豊かな海を守り育むことの大切さを改めて理解していただける機会となるとともに、カツオの一本釣りなど長年培われてきた本県の伝統ある漁法や、クロマグロの人工種苗生産の取り組みなどの新たな挑戦について、全国に向けて発信することができる絶好の機会になるものと考えております。
また、県外から多くの方々を御招待し、本県へお越しいただくことになります。「志国高知 幕末維新博」の第2幕が開催されている時期でもあり、観光部門とも連携して、本県の魅力である豊かな自然や食、歴史、文化などにつきましても相乗効果のあるPRに努めていきたいと考えております。
先日、大会の開催日も正式に決定し、大会開催に向けた準備も本格化してまいります。この大会が、参加される方々や県民の皆様にとって意義深く記憶に残るものとなりますよう、水産団体を初め多くの関係者の皆様の御理解と御協力をいただきながら、万全の準備を進めてまいります。
(10)林業大学校の人材育成について
○依光
次に、明治天皇、大正天皇と高知県にかかわりのある事柄から質問させていただきます。明治天皇は、明治維新により御自分の意思とは関係なく、満14歳で御即位されます。この若い明治天皇を支えたのは土佐の志士たちで、宮内大臣としては、土方久元、田中光顕、また明治天皇の教育を担当する侍補として佐々木高行がいました。
この明治天皇が崩御された後の大正時代に、明治神宮の造営が始まります。何もない原野に鎮守の森をつくるという大変困難な事業で、当時の林学の最先端の研究を結集して進められました。この事業には、全国からの多額の寄附、そして約10万本、365種にも上る全国からの献木があったそうです。また、一般財団法人日本青年館が発行している、明治神宮と青年団の造営奉仕という本の中で、全国209の青年団による延べ11万人の勤労奉仕が紹介されています。高知県からも600人の参加があり、高知県香美郡青年団60名の集合写真も掲載されています。全国から集まった若者は、造営局が用意したバラック宿舎で10日間の共同生活を送り、夜は講話を聞き、また東京の視察も行ったのだそうです。明治神宮は、若者の自発的な奉仕によってつくられ、その奉仕団でともに学んだ青年たちが故郷に帰り、林業の発展、地域の発展に尽くすという人材育成事業でもあったそうです。
現在、神宮外苑で建築中の新国立競技場は、高知県とゆかりの深い隈研吾さんの設計です。隈さんは、先月新校舎の落成式が行われた香美市の高知県立林業大学校の初代校長に御就任されることになっています。明治神宮の造営に参加した若者が故郷に帰って日本の林業を支えたように、新たな林業大学校も、日本の林業を牽引する学校になっていただきたいと思います。
そこで、高知県は、新たにスタートを切る林業大学校においてどのような人材を育てていこうとしているのか、林業振興・環境部長にお聞きをいたします。
○林業振興・環境部長
次に、林業大学校における人材育成についてお尋ねがありました。
県では、森林率全国1位の豊富な森林資源をダイナミックに活用することにより、林業の振興や中山間地域の活性化を進めています。
そのかなめとなる林業の担い手の育成・確保を目的に、平成27年4月に林業学校を創設し、短期課程と基礎課程を先行して開講しました。
基礎課程は、林業の現場で即戦力となる人材を育成するため、1年間で林業に関する知識や技術を基礎からしっかりと学び、林業分野に就業する上で必要な12の資格も取得できるなど、実践型のカリキュラムとなっています。この2年間で33名が卒業し、全員が県内の林業関係の仕事についています。
来年4月からは、新たに専攻課程を開設し、世界的な建築家である隈研吾先生を初代校長にお迎えして、林業大学校として本格開校することとしています。
この専攻課程では、森林管理、林業技術、木造設計の3つのコースにおいて、林業のエキスパートから木造建築を提案できる建築士まで、幅広い担い手を1年間で育成することとしています。そのカリキュラムは、森林の機能や林業経営など幅広い知識を習得できる共通科目とそれぞれの分野についての専門科目で構成されており、各分野の第一線で活躍されている一流の講師陣による充実した授業やフィールドワークにより、実践力と応用力が身につく内容となっています。
林業大学校では、隈校長のもと人材育成の拠点として、全国から志を持った人材が集まり、新しい森や木の文化と技術を世界に発信できる若者たちのプラットホームとなることを目指してまいりますとともに、知識や技術の向上のみならず、森林や木に対する理解を深め、木を愛する情熱を持って林業や木材産業の再生に取り組み、本県のみならず将来の日本をリードするすぐれた人材を育成していきたいと考えています。
(11)土佐人が明治維新で果たした役割を踏まえ、今後の高知県が日本にどのような役割を果たすべきかについて
○依光
最後に、大正天皇です。大正天皇と聞いてまず高知県民が思い出すのが、久礼大正町市場ではないかと思います。大正4年に久礼の大火によって230戸が焼けた際に、大正天皇より当時のお金で350円が復興費として届けられ、感激した町民により大正町市場に改名したということです。
現在の天皇皇后両陛下も、日本のあらゆる災害復旧現場に御訪問になり、被災された方々を励まされております。多くの国民もボランティアとして参加し、また被災された方々の落ちついた振る舞いは世界から称賛されました。この国民性は日本人の美徳です。
この美徳は海外にも伝わっており、その代表として台湾があります。台湾には、リップンチェンシンという言葉があり、漢字で書くと、日本精神となります。台湾では、あの人はリップンチェンシンだというと、真面目で勤勉で堅物の人を指すのだそうです。なぜこの言葉が生まれたかといえば、日本が台湾を統治していた時代に台湾の方が日本人に対して持ったイメージであり、敬意をもって見習おうとした名残だと思います。
戦前、戦中の日本の教育は軍国教育という洗脳であったと思われがちですが、台湾の人にとっては全く違うようで、私がお会いした台湾のおじいさんは、小学校のときに習ったという先生を恩師と呼び、本当に立派で優しい先生でしたよと日本語で語ってくれました。また、国交が結ばれ日本に旅行できるようになった際に、先生を訪ねて再会したともおっしゃっておられました。
台湾は、東日本大震災のときに、国民向けのチャリティー番組を放送するなどして、多くの台湾の方々がお金を出し合い、最終的に200億円の義援金を送ってくれました。また、台湾の皆さんが日本に旅行するのは、台湾統治時代に教育を受けた世代が、子供や孫の世代にも日本のよい印象を伝えたからだということです。
また、日本の外国に伝わった美徳として、移民された方のことにも触れたいと思います。昨年9月に、眞子内親王殿下も御臨席された、パラグアイ日本人移住80周年記念祭典へ出席させていただきました。ブラジル、アルゼンチンも含めた南米3カ国を訪問させていただいたのですが、印象に残ったことは、日本語学校において日本の美徳について子供たちにしっかりと教えていること、そして県人会などの日本関係の施設で皇室の家族写真が当たり前に飾られていることでした。皇室への敬愛の念をストレートに表現されていることに驚くとともに、皇室や愛国心について語ることがタブー視される日本のほうがおかしいのではと感じたことでした。
私は、来年の明治維新150年を契機に、尊王土佐人としての自信と誇りを呼び覚まし、土佐の志士たちのごとく、自分の地域は自分たちで守るという気概を持って頑張りたいと思います。
長々と話をしてきましたが、土佐人が明治維新で果たした役割を踏まえ、今後の高知県が日本にどのような役割を果たすべきか、知事の御所見をお聞きいたしまして、私の1問目といたします。
○知事
次に、土佐人が明治維新で果たした役割を踏まえ、今後の高知県が日本にどのような役割を果たすべきか、お尋ねがございました。
幕末維新期においては、日本国内では市場経済領域などの拡大、世界では産業革命などの進展という大きな時代の変化がゆっくりと進んでいく中、黒船来航などを契機として一挙に動乱期に突入し、近世から近代へと歴史は大きく動いていきました。この中で当時の土佐人は、自由民主主義、貿易立国の推進といった時代の大きな流れを指し示す、そうした役割をも果たしたものと考えます。
現代の日本においても、世界的にはグローバル化の進展など、国内的には人口減少の進展などといった大きな変化が緩やかに進んでいっております。何かをきっかけにハレーションを引き起こす前に、これらの大きな変化にあらかじめ対処していくことが求められます。現代の高知も、こうした時代の大きな流れの中において、時代の方向感にかかわる重要な役割を果たせるものと思います。私としては、人口減少問題、そして関連する問題としての中山間対策、さらには南海トラフ地震対策という少なくとも3つの課題については、その一つの処方箋を示す、そうした役割を高知は果たしていけるのではないかと思っています。
第1の人口減少問題については、本県は、全国に先駆けて平成2年より本格的な人口減社会に突入し、それに伴う経済の縮み、地域の福祉の崩壊という厳しい状況を経験してまいりました。これに対して、地産外商の取り組みや高知型福祉という意図的な福祉ネットワーク構築の取り組みなどを経て培ってきたノウハウは、今後本格的に人口減社会に突入する日本全体にとっても有益なものとなり得ると考えております。幕末・明治期の日本も、国を開くことを通じて国の発展を図りました。人口減少打開の鍵は、日本各地における地産外商と福祉ネットワークの構築にあると思っております。
第2に、中山間問題については、中山間は決して一方的に支えられる存在などではなく、むしろ強みであるとの考え方に基づき、それを生かすべく全力を挙げてまいりました。日本の自然豊かな田舎を強くすることは、東京など世界に冠たる日本の大都市の強みを生かすことと並んで、日本の潜在力を生かし切ることにつながる極めて重要なアジェンダだと考えます。幕末期の日本も、薩長土肥という強い地方が日本を救いました。強い地方は、今後の日本においても必要な存在であります。
第3に、南海トラフ地震対策を初めとする災害対策について、この分野が本県のノウハウを生かすべき分野であることは言うまでもありません。
いずれも、我が国の中長期的な発展を確保するために、国民の一人一人の幸せを保ち伸ばすために必要な課題であります。本県の経験を生かして、これらについて一つの処方箋を示すべく、機を捉え、発信、貢献してまいりたいと考えております。
私からは以上でございます。
○15番(依光晃一郎君)
ありがとうございまし
た。
知事から、力強い日本における高知県の役割について、強い地方、強い高知県をつくるというお話がありまして、自分も本当にそのとおりだと思います。明治維新から何を学ぶべきかといったときに、私自身が思うのは、自分の地域を自分で守る、自分たちの国は自分たちで守る、その意識ではないかと思います。来年に向けしっかりと勉強して、来年も皆様方とともに強い地方、強い高知県をつくりたいと思います。皆様よろしくお願いします。一切の質問といたします。ありがとうございました。(拍手)
○議長(浜田英宏君)
暫時休憩いたします。
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