紫紺の闇(下) 依光良馨氏 高知新聞夕刊

(2007.06.24アップ)
四国中国音楽散歩 57
昭和8(1933)年の5月上旬、東京・神田で特高刑事の尋問を受け、治安維持法違反で逮捕された依光良馨(94)=東京都羽村市在住、旧香美郡香北町出身=は、このとき20歳。
通常であれば、この年3月には東京商科大学予科(現一橋大学)を卒業し、本科へ進むことになるのだが、予科最終学年の3年生の初めに共産青年同盟(共青)へ入り、放校処分となっていた。
共青では、伊藤律の下に属した。元日本共産党政治局員(1953年に除名)の伊藤は依光より1つ年下で、共青の幹部だった。
依光は「思いもよらぬ重要ポスト」につけられる。「当時は次々と共産青年同盟の幹部が検挙されて人手不足となっていたためだろう」と、自叙伝「依光良馨歌暦」(全四巻)に記す。
任務は、東京内の八大学の共青へ機関紙を配分することなどだった。「神田神保町の裏通りで、特高にちょっと来いと連行され、持ち物を調べられた」
それ以前、依光は予科長(校長)に呼ばれ、こう言われる。「君を前に褒めたことがあったが、全部取り消す」。その日午後に会うことになっていた伊藤律に予科長の件を話すと、「警察から、”依光を検挙する”と連絡があったんだよ。今晩か明朝か、ガサ(捜査)が入るな。すぐに潜れ」。
依光は大急ぎで、そのころ入っていた市ヶ谷駅に近い高知県出身の学生寮「土佐協会」の自室の荷物を整理し、代々木駅付近の下宿に偽名で移った。逮捕されるのは、その4ヵ月後である。そして伊藤も半月後に逮捕される。
依光にとって、伊藤は「忘れ得ぬ友」である。今、東京の北西部・羽村市の高齢者マンションで暮らす依光はこんな話をした。
終戦後、代々木の共産党本部に伊藤を訪ねると、伊藤は「早く帰ってこいよ。でないとポストなくなるよ」。依光が「おれ、もうやめたんだ」と答えると、「ああ、そうかあ」-。
伊藤は昭和25年マッカーサー指令による共産党幹部の追放で地下活動、翌26年秋に中国へ密出国する。29年後の55年9月、劇的な帰国を果たすわけだが、目も耳も不自由になっていた。
依光は戦後、東京経済大学で教授となり、経済学部長などを務める。折をみて、八王子に伊藤を見舞いに通った。「彼、喜んでね。昔と同じにしてくれてありがたい、みんな近寄らないんだよ、と。ろれつの回らない、かすれ声でね」
伊藤律は平成元年8月、76歳で亡くなる。依光は語る。「伊藤は人柄は穏やか。頭がいいから、話すことが明確。彼と話せば必ず得るところがあった」
昭和9年秋、懲役2年、執行猶予3年の判決で、市ヶ谷刑務所を出所した依光良馨は、11年5月には東京商科予科3年に復学がなり、一橋寮寮歌「紫紺の闇」の歌詞を作ったのだった。
反戦の意思を込めた詞だったので「下手すると、またやられるな」と心配したが、何事もなく推移した。
ただ、本科も卒業し、上海の銀行に就職もしての一時帰国中、予科長らが来て、<-自由は死もて守るべし>の書き直しを求めた。太平洋戦争下、「勤労動員された学生が動員先で盛んに歌うので、学校としてはハラハラする」。
依光は「歌はもう社会的産物になっていますから」と突っぱねた。内心、「刑罰」を覚悟したが、やがて終戦となった。
この「紫紺の闇」、日本寮歌祭では毎回歌われ、昨年秋の京都市での洛陽寮歌祭では、卒業生らが尺八の伴奏とともに合唱した。「哀調を帯びた旋律の中にも・・・当時の予科生の烈々たる気概を示す歌詞にみんな酔いしれる」と書きとめている。
(編集委員・大宅充昭)
メモ
依光良馨は昭和12年には、同じ一橋寮寮歌「離別の悲歌」を作詞する(青木利夫作曲)。<人の命の旅の空 憧憬(あこがれ)遠く集ひより->、「やがてみんなが別れる時は精いっぱいの声張り上げて、別れの歌を歌おう、との思いで作った」(依光)。加藤登紀子が歌う「日本寮歌集」に入っている。
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