紫紺の闇(上) 依光良馨氏 高知新聞夕刊




(2007.06.24アップ)
四国中国音楽散歩 56

 昭和11(1936)年、東京・小平の東京商科大学予科(現一橋大学)の構内に予科生の寄宿舎・一橋(いっきょう)寮ができた。石神井から移転した予科は、武蔵野の森に囲まれてあった。
 寮歌が募集された。30数編の歌詞の募集があり、寮生の投票の結果、一等には予科三年生、依光良馨(よしか)の「紫紺の闇」が入った。
 <紫紺の闇の原頭に オリオンゆれて鶏(とり)鳴きぬ->から始まり、六番の<-自由は死もて守るべし>で終わる。予科三年の音楽部の山岡博次が作曲をした。
 寮歌には反戦の意思が込められていた。<紫紺の闇>は今は闇のような時代を意味し、ファシズムの体制をオリオン星座になぞらえ、それが揺れて希望の朝がくる、というのである。
 昭和11年といえば、二・二六事件があり、翌年には日中戦争が始まる。「間もなく戦争になると思った。寮の俊秀を戦争で殺されてなるものかと思った」
 依光は治安維持法違反で検挙され、獄中生活を経て、復学が成ったばかりだった。寮歌が問題となれば再び獄につながれる恐れがある。「高いがけから飛び降りるつもりで書いた」
 94歳になる依光は、70余年前をこう振り返る。戦後、東京経済大学お経済学部長や高崎商科短大(現高崎商科大)の初代学長などを務めた。今は東京・羽村市の高齢者マンションで元気に暮らす。

 依光良馨は大正元(1912)年、香美郡美良布村(旧香北町、現香美市)の染色業の家に生まれた。小さいころは病弱で、美良布で小学校を終えると、宮城県・白石で公立病院長をしていた20歳年上の兄・馨のもとに預けられ、旧制白石中学校(現県立白石高校)へ5年間通った。
 昭和5年、兄の強い指示で東京商科予科に入学。翌年、政府の出した予科廃止案に反対、籠城体験などを経て「私の頭は急速に社会主義化していった」。
 予科最終学年の3年生になると、学内左翼の中心となり、そして共産青年同盟(共青)に入った。予科は放校処分となった。
 街頭連絡中の同8年5月上旬、神田神保町で特高の刑事に呼び止められた。西神田署に連行され、足が折れると思うほどの拷問を受けた。子供時分、足はポリオを患っていた。「はうようにして留置場に戻ると、泥棒が一晩中、頭を水手ぬぐいで冷やしてくれた」
 数日後、美良布の両親と兄が面会に訪れた。父は終始無言、母は泣くばかりだった。「迷惑をかけることになったな」と思った。4ヵ月後、市ヶ谷刑務所へ未決囚として移された。「廊下の両側に独房があり、中は布団と枕だけだった」

 依光は予科に入ったとき、簿記、習字、そろばんに軍事教練が重視されているのに失望。入学時の保証人で、クリスチャンである山本忠興・早大教授(南国市出身、初期のテレビジョン開発者)の紹介で、飯田橋の教会に2年間通う。
 そのころ東北地方は不作で、少女たちの娼妓などへの身売りが続発、全国で不況による失業者が多かった。
 「教会では、そんな世を救う祈りなんかない、自分の幸福を祈るだけ。なあんだと思ってやめた」-左傾化を強めたのだった。
 市ヶ谷刑務所で約1年たった昭和9年秋、転向声明に署名する。「自分のようなひ弱な体では革命運動は無理。拷問されたら秘密を漏らすかもしれない」と思った。この後、裁判が始まり、東京地裁で懲役2年、執行猶予3年が言い渡され、即日出所した。
 美良布に戻り、農業をするつもりでいると、恩師らの計らいで復学への道が開ける。1年間、文部省の国民精神文化研究所で研修。昭和11年5月、予科3年生として復学、一橋寮に入った。23歳だった。
(編集委員・大宅充昭)

メモ
 国民精神文化研究所は文部省の直轄。依光良馨はここで1年間受講。論文の合格を受け、東京商科大予科の教授会が放校処分を取り消し、復学が決定した。研究所には、思想問題での各大学からの追放者が入所。哲学者の紀平正美らの国家主義的な講義を聴き、日曜ごとに目黒駅近くの寮から徒歩で明治神宮に参拝した。


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