下野尻 依光氏

徳永さんより頂いたメールがご縁で、以下の石碑を発見。



高崎商科短期大学 初代学長就任記念
依光良馨撰書建立とあります。

その碑と、徳永さんのコメントによると

依光姓を名乗ったのは、1530年頃、依光孫三郎左門という人が初代のようです。

ちなみに碑では、孫三郎左門の先代が中村孫左衛門、その先代が天竺三郎孫左衛門花清。
さらにその先代が
天竺孫八郎花房(兄)その先代が、天竺右近花氏!

なんと天竺氏にたどり着く。
おお。


つまり、土佐大津城主天竺右近花氏についてその先祖について、教えてくださいの花氏にたどり着いたのです!!

ちなみに、土佐名家系譜には、長岡郡(大津)依光孫左衛門の記述があり、中村孫左衛門と同人物ではないかと思われます。

そうであるならば、天竺氏由来の「依光姓」がもともとあって、おそらく同族でであった川窪氏がそれに倣って改姓したのではないでしょうか。

長宗我部元親が、なんで「依光」という姓を急に思いついたか不思議であったのですが、元から存在した依光という姓であったのなら、納得がいきます。

また、天竺氏落城(1547年)に依光姓の戦死者が出ることも納得ができ、川窪から依光に改姓したのが、信長の石山本願寺攻め(1570~80)後というのにも整合性が取れます。

上記天竺右近花氏についての掲示板では、中村姓の方の書き込みも多数あったので、依光姓との関連について、また書き込みをしてみたいとも思います。

いずれにせよ、碑文をきちんと読まなければ。

碑文の文面を書き写してまたアップさせて頂きます。


この記事へのコメント

徳永千尋
2006年03月13日 19:22
だんだん面白くなってきました。石碑の主の「依光良馨(よしか)」サンが、情報主です。まさしくその方が、ご自分のご先祖のために建立されたものです。間違いないです。依光家のご先祖は「源氏」ですが、清和源氏の流れをくみます。古くは桓武天皇が奈良で即位し、長岡京に遷京し、10年後に平安京に遷京した。806年に没した。その間インド人(天竺人)が、現愛知県に漂着し、このあたりは吉良庄天竺部落と呼ばれた。依光家の先祖の細川家の一族が鎌倉初期にこの一帯を領地としていた。一族の中の一人がこの天竺部落に住んでいたので、地名をとって天竺姓を名乗った。56代清和天皇は父文徳天皇が急死したため、9歳で即位した。藤原鎌足の子孫と結ばれ、陽成天皇の兄弟の貞純親王から始まる清和源氏の系譜につながる。河内源氏に流れ、初代の足利姓へ移り、後に細川姓を名乗り、細川義季へと継がれていく。この間、源頼朝の本流とは血のつながりはないが、どうも。源頼光の名から音をとって「依光」と名乗ったのではないかとしている。なぜなら、応仁の乱から10年後一時期、細川天竺姓から、中村姓(中村花清)になっている。土佐の土豪山田城主山田元義に仕官するに妻子、「依光」を名乗った。そのときの様子から、土佐大津城が落城し、城主細川天竺花清が、土佐四万十川畔の中村城に逃げ込んで、中村姓にした。その後3代を経て山田城に仕官することになったとき、思い立って、源氏の祖先に思いをはせ、いまさら源では変だろうから、義家か頼光がよいのでは?と思って、その音から「依光」としたのではとと、勝手に(?)考えているようである。その後土佐の4代目の中村花英には3人の子供がいて、長男:中村三郎左衛門は、跡を継ぎ、隣部落の楠目(くずめ)に移住して、楠目城(山田城)の山田丹波守に仕官した。次男は中村(孫三郎)左門は、天文十年中村姓を依光姓に改姓した。三男もすでに依光を名乗っており、幸右衛門というが、記録が残っていない。天文18年には楠目城は長宗我部国親に攻め落とされた。このとき依光左門は主君を守り、物部川の上流の窪(久保)(現物部村久保部落)に逃げている。このあたりが、依光姓としてあらわれている。そののち君主が没した後、香北町美良布に移住。45歳で没する。戸賀にある釈迦堂の東側の谷の東岸に「今若宮神社」なる依光家の氏神様として祭られている。6月18日と9月18日が祭日である。
さあ、この依光左門には。土佐山田郷に住む3人の甥がいた。いずれも左門の兄、中村三郎左衛門の子であったが、すでに依光と改姓していた。依光内蔵之進(くらのしん)、越中守、清兵衛といい、長宗我部元親に仕官した。折もおり、本能寺の変前夜である・徳島の中富川で戦死する。次男も島津と戦いに敗れ討ち死にした。本日はここまでです。

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