きっかけ

ここでは、依光氏について調べるきっかけを書きたいと思います。

そもそも、依光氏のルーツ探しは、2004年10月21日に天竺神社という神社を発見したことでした。屋根工事という仕事柄、普通の人よりも行動範囲が広く、色々なところに出かけます。

そこで天竺神社という不思議な神社を見つけ、ネットで検索しひとつのページを見つけました。


帰ってネットで検索すると以下のページ発見。
土佐大津城主天竺右近花氏についてその先祖について、教えてください

SIG歴史への招待というHPの教えてくださいコーナーに投稿されたもの。

そこで以下の記述を見つける。

お名前: 遊行笑人
もう一件参考までに。落城の際に討死された家臣のお名前を系図より見ました所、敬称略、横山、依光、宮地、坂本、長崎、井上皆戦死矣。と記されております。当然城主、私の先祖通祐も討死すれど、十市細川の家老職廣田佐馬祐の娘が嫁で在った為、落城の際幼少の二人の子光祐、弟通重が生き母の里にて、十市城主細川備前入道宗兆殿の家臣広田殿の由縁により、育てられ事を記す。兄光祐は暫く大津に在す。弟は成人した後、宗兆殿に従して、土佐之西の現在の宿毛市山奈町山田(吉奈と言うも、故ありて吉を芳に替える)鶴カ城に配置、居スと(此れは時代が下がり、長宗我部元親殿の家来衆(吉奈衆または芳奈衆125人なり)として、伊予之国、九州への戦に対応していた様です。
[2004年07月30日14時10分]


すかさず以下の書き込みをする。

お名前: 瓦屋のよりみつ

みなさま。はじめまして。
偶然このHPを発見しまして、非常に興奮しております。

今日天竺神社にふと立ち寄り、その名前の面白さからネットで検索してみたところこのページを発見しました。

私は依光姓なのですが、皆様方のようにご先祖(依光氏)のことについて知りません。
ただ興味はあります。
(ちなみに残念ながら、4代前の先祖が依光さんちに養子に入って、依光姓になったので、正確にはご先祖ではないのですが。)
最初は、知識のない私のようなものが書き込むことに恥ずかしさを感じていましたが、どうしてもお聞きしたくなり、恥ずかしながら書きこまさせていただきます。

2004年07月30日の遊行笑人さんの記述で、落城した際に討死した家臣名前に依光氏とありますが、寺石正路著「土佐名家系譜」による依光氏の由来は、この時代より後となっています。元親の関連で依光姓を名乗り始める?
(この本に依光姓第1号とは書いていませんでしたが、私はそう認識していました)
ちなみにまさるマニアというHPに省略版が載っています。
川窪氏→依光に改名。
http://www2.inforyoma.or.jp/~ota/KtosaK.html#kawakubo

遊行笑人さんの資料が正しければ、依光氏は上記事件前からあったことになり、とても興味があります。

もしよかったらお時間のある時にでも出典資料を教えていただければと思います。

唐突なお願いで申し訳ありません。
よろしくお願いいたします。

[2004年10月21日23時47分]


お返事

お名前: 遊行笑人
瓦屋・依光さま!初めまして。土佐大津城天竺花氏のお話を御覧戴き、今後とも色々と情報の交換をお願いします。
私の学生時代の友人にも、南国市に居られましたT・依光氏が居ましたよ!。
早速ご紹介のHPを拝見しました。ルーツの依光氏の所以は、我家伝来の土佐大津城主細川氏の御縁に依りその後を繋げた、伊予の国越智姓河野氏(河野水軍)の河野通有の三男通種の二男通任の子孫の係累を継ぐ、土佐国越智姓河野・今岡・下村(同姓・同族三家也)の個人の系図に記載されております・細川氏の下にて長宗我部国親の大津城夜襲、落城の際に仕えた家来衆の家名に記されております。(討死の際にも、一族の内其の子達は夫々の家系で、生き延びておる事も史実にて、その後に、元親の時代に、家臣団に属して居りますのも否めません)。
細川氏はご存知通り、四国諸国を勢力下に治めた中央政権幕府管領にて、嘗ては長宗我部氏も家来衆の一氏で有りました。時代を移し、中央での覇権争い、斯波氏等との所以や諸事情により、次第に弱体化も見られ、四国覇者の地位から退く時代を迎える事、逆転の由も皆様の周知の史実也。
我々の先祖も、豊州戸次川の戦(天正十四年戌年十二月十二日長宗我部弥三郎信親君戦死の時、
一処にて戦死す・其の時土佐国城持并侍大将倶41人甲兵二百二十余人・其の外雑兵に至るまで
都合七百余人討ち死にすと記されております。)に出陣して居ります。
大津城には細川氏の譜代家臣も当然従して来て居た故(私の先祖の吉通も細川氏譜代家臣下村氏藤原姓の娘の婿に入る)、落城後に細川左衛門太夫の男(息子)兵部少輔殿者曽我井伊豆供奉京都に立退くと記す。川窪氏と名乗られた御方も大和の国が出自なれば、追従・越して来られた所以の士族と考え、落城後、何かの由縁で依光氏の名を残したと考えると、前後の話に附合することも考えれるのではと!。笑人推測申し上げます。今後の探索の参考にして下さい!
[2004年10月22日01時57分]



そして今年(06年)になって、ブログに以下のコメントを頂く。

2004年10月21日へのコメント

興味深く読ませていただきました。私は東京に在住ですが、「依光さん」という方と知り合いです。この方は、香北町下野尻のご出身で、現在東京在住です。彼から聞いた話ですと、1530年からは下野尻に根付いたらしいのですが、そのはるか以前からの歴史的なことをご存知でした。私も、昨日(3月6日)訪高し、現場に赴きましたが、知人にこのホームページを教えてもらっています。「依光さん」には、10日にお目にかかれると思いますので、もっと詳しいことをお伝えすることができるかもしれません。どうぞよろしくお願いします。
2006年03月07日 11:17


ヨリミツさんの家系について文献入手しました。天竺孫十郎花氏(はなうじ)サンで、従二位右近少将を受けられたそうです。名前には代々孫という字が当てられていたようです。応仁の乱を避け、京都西山からこられたようです。大津城主だったようですね。詳しくはまたご報告します。お返事待っています。徳永拝
2006年03月10日 21:39


それから2006年03月08日へのコメント

依光さま 先ほど、大津城址の記事はコメントを寄せておきました。こちらの記事を読み直して、ミスをしたことをお詫びいたします。この碑ですが、依光姓を名乗ったのは、孫三郎左門(1530年頃)が、細川天竺孫十郎花氏を初代として5代目のようです。その後、甚五右衛門、甚右衛門、七右衛門、七兵衛、十左衛門、長次郎、十左衛門、十蔵、十左衛門、十蔵、十左衛門、金四郎、幾蔵、駒吉、馨、哲四郎(18代目)だそうです。ただし、6代目以降は、当然分家などがあると思います。貴殿がどの流れになられるのかは不明ですが、取り急ぎ、ご報告まで。またご連絡いたします。なお、当のご本人は、この件で、非常にお喜びの様子でした。徳永拝
2006年03月10日 21:51


本当にありがたいご縁です。

全国に散っている依光氏について、情報がどんどん集まってくるようになればと思います。

何かご存知の方がいらっしゃれば、ご連絡くださいね。
今後が楽しみです。

PS グリーmixiに「姓が依光」というのを作りました♪


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